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「それ僕」を見に行くつもりだったのに・・・

このところやたら眠く、今日も昼近くまで寝ていた。午後から近所の茶店へ仕事しに出かけたが、まだ切羽詰まってないうちに、そろそろ映画を一本観ておきたく、妻には3時過ぎからマイカルに行って『それでも僕はやってない』を観に行くぞと宣言。予定通り、3時前に一旦仕事を中断し、家に戻ってきたら、妻がちょっと出かけるのは疲れたというので、この予定は流れにする。

でも昼前にマイカルの上映予定を調べたら、『それ僕』の上映、もう1日2回だけになってんだよな。なにそれ? もしかして人、入ってないの? まだ観てもいないから確言はできないものの、それでも同時期公開の『どろろ』よりは観る価値のある映画だと思うんだがな。その『どろろ』は、まだ1日5回くらいの上映になっている。そういえば最近、日本映画の興収が洋画を超えたとかいって、時々話題になってるけど、どこかでその映画の成績見たら、1位が『ゲド戦記』で2位が『海猿』とかそんなんじゃなかったっけ。そんなもんが上位に来るような成績で、日本映画が面白くなってきたとか言われたって、絶対信じられるかっ!

ま、妻に言われてあっさり外出を諦めた僕が、2階の仕事場に持って行くコーヒーを作っていると、妻が昨日切り取った記事は読んだかと聞いてくる。我が家では、毎日新聞の端から端まで目を通しているのは妻で、彼女がこれは注目すべきだと思った記事を切り抜いて、箱に溜めていってくれている。僕は時々、その箱に溜まった記事を拾い読みして、漫画のネタになりそうな物をチェックしたりするという仕組みだ。

昨日、彼女が注目した記事は、直接漫画ネタには関係ないが、河合さんというどこかの大学教授が、近年の少年犯罪について持論を展開した、朝日新聞掲載のコラムであった。簡単に要約すれば、近年日本の犯罪は凶悪な事件が増え、少年犯罪も増えているように言われるが、統計的に見れば、むしろそういう事件は昔の方が多かったのだ、という前フリから入る。それは、多少なりともそういう問題に関心のある人にとっては自明の事実で、もちろん僕もテレビのワイドショーなどで、最近少年の凶悪犯罪が増えて、などと口走るキャスターなりコメンテーターなりを見ると、ああ、こいつは物を知らないな、と思う程度の知識は出来ている。

河合氏は続けて、しかし犯罪の質は昔に比べて確かに変容しており、そこには危惧すべき状況も見えるという。その具体例として少年犯罪をあげ、たとえば昔ならキーがなくてもバイクを奪う技術があれば、バイク窃盗なんか容易に出来たのに、最近のワルはその技術を持っていないために、バイクの持主を襲い、引きずり下ろして強盗化する。あるいは2人くらいでカツアゲする技能がなくなったために、集団で取り囲んで金品を奪い、抵抗すれば限度なく痛めつける。要するに、少年に悪の技術を継承する人間がいなくなったために、少年の犯罪が未熟で稚拙化してしまったと。これはあくまで僕が解釈した大意だけど、そのようなことを「天下の」朝日新聞で述べるとは、なかなか大胆なと感心してしまった。

で、古くは女子高生コンクリート殺人から、近年のいじめ事件に至るまで、要するに昔ならこれくらいでやめておけというリーダーがいたものだが、いまはそういう非行グループが劣化してしまったために、誰も限度がわからず、稚拙さゆえに重大な結果を招く事件が増えてきたと解説する。原因は個人の資質というより、同じような社会階層の同じような年齢の子どもが集まって作られる同質集団の病理なのだと。だから対策としては、多様な人間と出会える経験を、とりわけ年長者と出会い、いいことも悪いことも先輩から教えられる経験が必要なのだという方向に論理は展開していくのだが、僕の目的はこの河合氏の意見を論評することではない。

僕は一通り読んで、妻にこれは暴対法のせいで犯罪が増えたという論に似てるなあと言った。「え? どういうこと?」と聞き返すので説明する。

暴力団対策法が施行されて、もう10年以上経つが、あの時、いわゆる左翼の立場から現役のヤクザ組長なんかと連携して、法案反対に回った論陣があった。どんな人がいたかはもう細かく覚えてないけど、論旨はこういうことで、暴対法によって資金源を断たれたり、運営が苦しくなったヤクザ組織は、組を解散するか、人員を整理して規模を縮小するしかなくなる。ところがヤクザ組織、闇社会と言い換えてもいいが、ことの是非はともかく、こういう組織は元々、社会の中に組み込まれない人間、社会から弾かれるしかない人間の受け皿として機能する部分があった。暴対法でヤクザ組織の力を削ぐ、その目的自体はいいとしても、ではそういうはみだしくんたちをどうするのかという部分をまったく考慮しないまま、組織を潰せばどういう事態が起きるか。それまでは曲がりなりにもそういう人たちは、たいてい順当にヤクザにしかならなかったから、ヤクザ組織の中で今度は逆に厳しい監視の目にさらされることになる。つまり、はみだし者が個人で下手な犯罪などしようものなら、指をつめられるか、場合によってはコンクリートで固められて捨てられるという制裁を、ちゃんと受けられる仕組みになっていた。だが、彼らを受入れる場所が社会のどこにもなくなってしまえば、彼らは社会の中で、野に放たれた猛獣となるしかない。

案の定。と、きっと10年以上前にそういう論陣を張った人などは思っているだろう。暴対法が施行されてしばらくした頃から、凶悪な犯罪の犯人に「20代無職」という鍵言葉が踊るようになった時期があることを覚えている人はいるだろうか。僕は覚えている。奈良の山中で女子高生が車に轢かれた事件か何かがあった頃だ。何件か犯人が無職の青年だった事件が続いて、週刊誌の中吊り広告にも「また20代無職!」という見出しがあった。その頃僕は、まだ喰えるか喰えないかわからない、世間的にはまったく無名の原作者だったから、ああ、俺がいま何か犯罪を起こして捕まったら、「今度は30代無職!」とか言われるんだろうなと、ひそかに脅えていたものだ。

あの頃の20代無職の犯人たちが、放っておいたらヤクザ組織に入るような人たちばかりであったかどうかはわからない。だから、一概に上の論旨が正しいとは断言できないが、そういう一面があることは否定できないと僕は思っている。人は必ず四六時中光に照らされてばかりいる部分だけで生きているわけではない。社会だってそうで、闇をまったく抱えていない社会など、独裁か全体主義か、人は改造可能だと信じる勢力によって形成された共産国家くらいしか成立しえないだろう。いずれにせよ、そんな社会は猛烈な監視国家になるはずで、もしかすると日本は、その方向に向かっているのかもしれないと、時々思うことがある。

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