坂の上といえば・・・
多分関西だけの番組だと思うのだが、夜中にさんま司会のクイズ番組のようなものがあって、これの定番クイズの一つにフリップで、ある複合可能な単語を示し、たとえば「アイスと言えば、何でしょう?」みたいに後に続く言葉を回答者に書かせるというものがある。するとそれぞれ「クリーム」とか「エイジ」とか「ノン」といった具合に思いついた言葉を書いて、回答者の一致した数が多いほど得点が高くなるというルールになっている。
別にその番組がどうという話ではなく、あくまでこれは単なる前振り。要するに、たとえばいきなり「坂の上の、といえば後に続く言葉は何でしょう」なんて聞かれたとしたら、たぶん僕が真っ先に思いつく言葉はいままで「田村麻呂」しかなかったのだけれど、もしかすると来年辺りはたまに「雲」なんて言ってるのかも知れないという話。
NHKが3年くらい前から宣伝を始めていたドラマ『坂の上の雲』の放映が、いよいよ先週から始まった。僕は第1話だけ、しかも前半40分くらいまでしか見ていないが、いやあ3年前から宣伝したくなる気持ちもよくわかる。しかもNHKは、多分これを制作するために2年くらい前からNHKスペシャルや、その時歴史などの番組を使って、明治を盛り上げるための下準備をしていたフシがある。Nスペは確か去年、明治特集をしていたはずだ。
さらにこの秋からいよいよ本編予告、番宣番組を総力投入。ちらとでも見てしまうと、確かに期待度は高まる。それは僕が言う偏差値を高める効果にほかならず、つまりは見る前に相当ハードルが高くなってしまうということでもある。作品自体は水準以上のレベルなんだろうけど、やたら評判が耳に入ったあとに見てしまったため、何となくこの程度のものかと思ってしまった「おくりびと」は、まさに見る前の期待度の高さに邪魔された例だ。あれと同じようなことになるとつまらんなあと思いつつ、とりあえず第1話は放映日に見た。
もうね、冒頭から僕は鳥肌が立ちましたよ。
何に感心したかって、まずはあの画面の作り込み方。明治初期の町並み、人々の服装、貧乏人の家の中など、明治物を書いている人間には、教科書にしたいような画面が次から次へと出てくる。さらにその作品世界を覆う山、海、田畑などの自然の風景。どこでこんな場所見つけてきたんだろうと思えるほど、牧歌的に違和感のない、つまり日本人のDNAがいかにも喜びそうな懐かしさを感じる風景が映し出されている。
それを背景に明治初期の人々の気質や人間関係、ああ、昔は確かにこういう人間がいたであろうと思える登場人物たちの爽やかさや純粋さに心を打たれ、はからずも僕は冒頭10分ほど見ているだけで不覚にも涙が込み上げてくるほどであった。隣で見ていた妻は、テレビじゃなくてテレビを見ている僕の様子を見て、気味悪がっていたが。
「私、あなたほど入り込めないからわからない」というのがこのドラマを前半だけ見た妻の感想である。わからんで結構。僕はいままで資料や書物の中でしか想像できなかった世界が、まさにテレビの中で再現されていることに、まずは大きな驚きと感心をした。もうね、NHKこれに関してはマジですよ、マジ。さすがに司馬さんが生きていた頃からの数十年来の企画という話は、伊達ではなかったのだな。
そんな話をなんで1話の前半しか見てないかというと、この日は9時からTBSで僕と妻が今期、日本のドラマで最も楽しみにしている『仁』を見なければならなかったからだ。『坂の上』はちょっと時間がかぶるし、もちろん録画をセットしていたのは『坂の上』の方だし、ということで途中でチャンネルを変えたが、なんとまあ、僕がいままで突飛な設定の時代劇の割には良くできている思っていた『仁』のセットや風景も、『坂の上』を見た後ではなんか見劣りがしてしまうことに気づいて愕然とする。はっきり言ってあれは、NHKが普通に作っている大河ドラマの質と量をさえ、相当に凌駕しているに違いない。
とはいえ、『仁』をやってる間は、どうしても30分ばかり時間がかぶるので、そのたびにいちいちチャンネルを変えて『仁』を見終えてから、また録画しておいた『坂の上』の後半を見る、という見方も嫌だし、実際いまはそこまで余裕もないため、『坂の上』はとりあえず一通り録画してから正月にでもまとめ見することに決めた。僕がまだ第1話の前半しか見ていないという理由は、そのためである。
話は少し方向を変えるが、実は僕はこれ、司馬遼太郎の原作を読んでいない。僕は一時期は司馬ファンと呼ばれていいほど、司馬作品で名作と呼ばれる作品はおおむね読んでいると思う。ところが、『坂の上の雲』という小説は、もちろんタイトルだけは知っていたけれどまったく手に取る気にもなれなかった。理由は、めんどくさいから。
僕は戦国時代を描いた司馬作品で虜になり、幕末の群像を描いた作品群でそのわかりやすさに痺れた口だが、徐々にあの人が近代に近い時代を素材にしていくにつれ、敬遠するようになってきた。司馬さん自身は明治という時代を描くことで現在のこの国の形の成り立ちを掘り起こそうとしていたのかもしれないが、僕は正直『翔ぶが如く』までが限界だった。
西郷と大久保という親友同士だった二人の男が、車の両輪のように維新を成功させ、しかもいずれこの二人は不倶戴天の敵となってしまうという運命の皮肉、『国盗り物語』もそうだけど、昨日の友が今日の敵といった人間関係ほど、物語としてドラマチックな素材はない。僕はこういう展開、萌える。この作品は大河ドラマにもなって、原作同様、やはり前半は面白かった。つまり薩摩の下級藩士だった二人が、明治維新を成し遂げて幕府政治を終わらせるまでの部分はね。
後半は明治の話になる。もちろんクライマックスは西南戦争で、これが始まりだすと、もう小説を読んでるのか資料を読んでるのかだんだんわからなくなってくるようなところがある。僕は、これが駄目だった。
司馬さんが相当の資料を渉猟して作品を書くことは有名な話で、その成果はちゃんと戦国物にも幕末物にも生かされている。ただ、明治以降になるともう近代に入ってることもあって、恐らくかなりちゃんとした資料が相当数残っているんだろう。それをどれほど集めたのか知らないが、今度は小説の中に一次資料がほとんど手を加えない形で、ばんっと提示されたりする。まるでもうこれだけ生の資料があるから、とりあえずこれを読んで、この状況がどういうことだったかはそっちの方で想像してください、とでも言われてるようだ。
僕はドキュメンタリーを読みたいわけではない。あくまで司馬遼太郎という作家が想像力豊かに膨らませて書いた、娯楽小説を読みたいと思っているだけなんだが、あの人の明治物って、結局全部上に書いたような印象がある。つまり司馬さんの作った物語を読まされるのではなく、司馬さんの集めた資料によって物語が語られていくような印象と言えばいいか。
『坂の上の雲』が放映開始される前後に、どっかの歴史学者関係のグループか何かが、『坂の上』には重大な事実誤認があるのに、それをまるで歴史的事実のように描くことには問題があるというNHKへの抗議だったか声明だったかを表明したというニュースがあった。国民作家とまで呼ばれた司馬遼太郎の影響力を物語るエピソードといえなくもないが、これに関してはまったく筋違いな話で、ある作家が小説の形を取って作った歴史解釈にまで文句を言われたら、いわゆる歴史小説ははっきり言って全滅である。
司馬作品の内容に文句を言いたいなら本を出すなりシンポを開くなりいろんなやり方があるはずで、いきなり小説の内容に抗議なんてやり方は、その主張如何に関わらず稚拙な手であり、右曲がりのダンディーたちに格好のからかいネタを与えるくらいの効果しかない。
僕は、いかにもこれが事実だ真相だみたいな顔をして、不確かな話や、あるいは捏造した内容を読者や視聴者に見せようとするルポやドキュメンタリーに対しては、事実と異なる部分が明らかならその関係者が抗議するのは当然の権利だと思うし、検証は常になされるべきだとは思うけれど、小説の場合はそもそも事実と違うことをいかにも事実のように見せるのが作家の腕だからね。これに文句を言われたら、創作者はたまらんなあと思うから、筋違いだと言ったまでで、小説の内容に関してはたとえば歴史小説ならその歴史解釈も含めて、面白いかつまらんかというその点によって読者の淘汰に任せるべきだと僕は思っている。
ただ、歴史小説家としての司馬さんの不幸は、あまりに小説がうますぎて、あの人が小説で書いたことを読者はほとんど事実だと思うようになってしまったことでもあるのだが。
まあそれにしてもだ。僕は司馬さんがそれなりのこだわりを持って書いたはずの明治ものは、恐らく今後も敬遠していくだろうから、それがドラマとして映像化されたのはまことに有難い。まるで、漫画で日本経済勉強しましたといって威張っている人みたいだけど、面白くさえあれば、僕は何の不満もない。なんとか正月三が日くらいはそこそこゆっくり過ごせるようにして、日本酒か何かをちびちび舐めながら、3年がかりの大作の第1部全5話一気見してやるのだ。
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