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戦争は終わったが、革命はこれからだ

スティーブン・ソダーバーグがなんでいまごろゲバラなんかに興味を持ったのかわからないし、ハリウッドでいまどきゲバラの映画が作られることの意味もよくわからないから、そんな話はちゃんとした映画評論家か何かの話でも聞けばいいか。実際、最近世界でちょっとしたゲバラブームだという話は、何ヶ月か前にも聞いたような気もするし、もしかするとそれは現代社会の混迷の深刻さと関係があるのかもしれない。

ただし、日本でいまゲバラが来てるかどうかとなると、そんな話はこの映画の公開時のちょっとした宣伝期を除いてほとんど聞いた記憶がない。では日本人はゲバラに無関心かと言えばそんなこたない。僕の個人史で思い出せば、小学校高学年から中学の頃は一般的に日本の政治が熱かった時代と言ってもよかろうが、「内ゲバ」とか「ゲバ棒」なんて言葉がテレビや新聞どころか、普通の日常語としてよく耳に入っていた時期がある。その時期に僕はこの「ゲバ」を、勝手にゲバラの名前に由来しているものだと解釈していた。

格別ゲバラに思い入れがあったわけではなく、いや、むしろその頃の僕はゲバラがどこの国の人かもよく知らないくせに、彼が革命者だということだけは知っていた。何でだろう。やっぱりゲバラの語感がガメラとかジャミラみたいでかっこよかったからだろうか。何にせよその頃の日本でも、ゲバラの名前は子どもでも知っている一般教養程度には知られていたのだと思う。

ま、内ゲバもゲバ棒も実物を知りませんが、かわりに『銭ゲバ』と『ゲバゲバ90分』は大好きな子どもだった僕は、ゲバの語源がゲバラだと……なんで思い込んでたんだろうな。やっぱりゲバラの語感自体が好きだったのだろうか。ちなみに言わずもがなだが、ゲバの語源はドイツ語のゲバルトです。その程度の認識だから、正直言って僕はキューバ革命もゲバラそのものも、ほとんど知らないす。

高校の頃から大学にかけ僕は本多勝一の熱心な読者だったことがあって、実際その頃は大きくなったら朝日新聞に入って社会正義のために戦う記者になろうと夢想したこともあったくらいで、まあそれは夢想というよりむしろ夢精というべき無意味な一瞬の妄想に終わったが、とにかくその当時読んでいた本多さんの本でよく、若い頃にこれだけは読んどけみたいな推薦図書としてあげられていたのが、ゲバラとかマルコムXの日記とか伝記だったりした。

すみません。この年になるまで一切何も読んでませんでした自称本多ファン、返上。

というわけで、僕がソダーバーグのこの映画が公開当時から気になってはいたのは、スパイク・リーの『マルコムX』を見たときもそういやそんな気分があったけど、この『チェ・28才の革命』に関して言えば多分に教養として押さえとかなきゃ、みたいな感じで見ている部分が強い。もちろんそれで思いの外面白かったり感動できたりすれば言うことないわけだが。

とはいえ、基本は映画なのだからどこにどんなフィクションが仕掛けられてるかわかったものではないし、映画見たくらいでゲバラを語れるわけなどない。坂本龍馬の事績をNHKの『龍馬伝』から得た知識で語るようなものだ。てゆうかあのドラマは、毎回ここまでフィクションにしていいのかとある意味、感心しながら見ているが、視聴率はかなりいいらしい。ま、『篤姫』だって半分は完全フィクションだが、ドラマとして面白かったから感動も出来た。でも僕にはいまだに福山雅治がどうしても龍馬に見えないのが致命的。いっそこれは岩崎弥太郎が主人公だと思ってみれば、意外と魅力的な話にも見えてくる。キャラとして弥太郎のみ圧倒的に立ちまくっているせいだな。ただ香川照之、少しは休めよ。

タイトルは『チェ・28才の革命』の終盤、革命を成功させたゲバラが女性記者か誰かに聞かれて答えたセリフ。ゲバラは結構あちこちでかっこいいセリフを吐いていて、それがまたファンの多い理由でもあるんだろうけど、悲しいかな僕らはかっこのいいことを言って革命を成功させた者たちがひとたび権力の座に着くと、いままで抑圧から解放すると宣言してきた人民に、さらにひどい抑圧を加えたりする例を内外含めた歴史のあちこちで見てきている。政治の季節が終わった後に青春始めてみまあ~すと高校に乗り込んでいった僕らは、シラケ世代だの三無主義だのいろんなこと言われてきたけど、つまり政治に関しては右も左も信用しなくなっただけの話。後の無党派層の母体は僕らかもな。

ただしゲバラはキューバ革命を成功させた数年後に、あとの国作り一切を盟友カストロに任せ、自分はさらに他の独裁的な政権の圧政に苦しむ人民を助けると称して密かにキューバを抜け出し、南米各地を転戦する。キューバに留まっていればナンバー2以上の立場にはなっただろう人間が、最終的にはボリビアかどっかの山中で政府軍に追い詰められて死ぬのである。

こういう死に様って、日本人好みには違いない。意外と日本人、こんな保守的な風土と国民性でありながら、なぜか革命児好きな一面があるからだ。あ、この言い方は正確ではないかも。日本人は同時代の革命児は基本的に嫌うからね。すなわち日本人が好む革命者は常にもういま自分のいる時代には影響を及ぼさない過去の人間であって、必ず道半ばで非業の死を遂げていなければならない。その意味ではゲバラは日本人への訴求ポイントが高いはず。

ちなみにゲバラはキューバ政権の閣僚か何かをやってた時代に一度日本へ来ている。なぜかマスコミにはほとんど黙殺されたらしい。アメリカにメンチ切った形で成立したキューバの閣僚だから、当時の日本としては宗主国に対する配慮が何かあったのか。ゲバラ自身は忙しいスケジュールの合間を縫って、突然広島を訪れたりしているのだが。キューバの小学生がいまでもヒロシマやナガサキを知っているのは、ゲバラが自国の子どもに原爆の惨禍を教えるよう指示したためとも言われている。もちろん原爆を落とした国の小学生は、下手すると一生知る機会もない地名ではある。

だがもし彼が無事に生きていたら、革命を成功させたどこかの国の最高権力者に収まって、若い頃言ってたこととは全然違う弾圧政策や恐怖政治を平気で行なっていたかもしれないという現実も、可能性としては存在した。なのに彼は道半ばで殺されてしまったから、それまでの彼の言動をかんがみて、彼さえ生きていれば世界はもう少しましな形になったのではないかという夢想が生まれる素地になった。毛沢東だって革命前に死んでりゃ好感度は高かっただろうか。

皮肉なことに生きている人間に夢を与えるのは常に死んでしまった人間だ。死者はもう余計なことは言わないし余計なこともしないから、生者がかなわなかった夢を仮託するのにちょうど都合の良い存在になるからだ。有名どころでは、たとえばイエス・キリストなんてのもそういう消費のされ方をしているのではないか。何にせよ悲劇の英雄の存在は僕らにとって、つまり人間にとっていつの時代も必要とされるものなのだろう。その意味で、ゲバラは龍馬ともよく似ている。

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