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白木葉子と坂の上の雲

午後、昨日センターのM先生に処方してもらった母の薬を持って、ホームへ。まったく忘れていたけどたまたま今日は永源寺のH先生の往診日でもあり、ちょうどいい折なので、母の部屋でしばらく母に話しかけながらH先生の診察を待つ。

母は昼食後で少し疲れたのか、部屋のベッドで横になっていた。僕が入った時はいびきをかいて眠っていたが、しばらく横で見守っているとふっと目をあけた。おはようと声をかけるが、なかなか僕の方に視線をくれない。仕方ないので母の顔を掴んでその上にこちらの顔を移動し、もう一度おはよおぉぉと念押しするように声をかける。

往診に見えたH先生とも話が出来たので、その足で僕は南蛮茶に寄って仕事仕事。とはいえ、その前にスポーツ新聞だ。なにしろ昨日も阪神、巨人にサヨナラ勝ち。これで三連勝。どうせ何連敗という時期だって来るに決まってるのだから、勝ってるときは骨の髄まで楽しむに限る。広げた新聞の芸能欄に『あしたのジョー』のキャストの話題が載っていた。白木葉子の役に香里奈が決まったというが、どう考えてもイメージが違う

そもそも『あしたのジョー』を実写化という話題を聞いた時点でまた一つ、少年時代の大事な思い出の一つが泥靴で汚されるのかと溜息をつきたい気分になってしまう。僕らの青少年期に鮮烈な記憶と感動を残した漫画作品を実写化されるときほど、つくづくこの国は漫画一流映画三流の国であったのだと思い知らされることはない。漫画三流映画一流のアメリカなら、たとえば『ダークナイト』のような作品を生み出す例があるが、日本じゃ期待しない方が怪我が少なくて済むというのがとにかく悲しい。

ソフトが一流だからそれに乗っかれば何か一流ぽいものが出来るかも知れないと思ってる時点で、そもそも映画の企画としてアウトだろ。企画会議で何かいまウケてる漫画はないかとか、昔のヒット漫画でいまやればウケそうなものはないかなんて具合に漫画の単行本をテーブルの上に積み上げて、企画を探している映画人がいるとすれば恥を知るべきだ。

そもそも日本の映画界はそんな(彼らにとって)安パイともいえる旧ヒット作の映像化などに頼るより、もっとちゃんとしたオリジナル脚本の書ける作家を育てるべきだと思う。原則論で言えば、映画の脚本家とテレビドラマの脚本家は明確に区別されるものなのだが、日本の場合は近年、テレビでちょっとヒットしたドラマを映画化などと称し、同じ脚本家に書かせて映画にしてしまう例も多い。これもやはり安パイの理屈だが、冒険を恐れる業界に未来なんかあるわけがない。

そりゃ僕もね、テレビドラマとしてファンになったものは、つい映画化にも足を運んでしまいますよ。恥ずかしながら『のだめ』とか『踊る』とか、テレビでもうやんないっていうなら、仕方ないじゃあないですか。でもまあそれはそれで、これらが映画として単品で面白いかとか言われたら、映画版でも間違いなく傑作でしたなんて言える作品は、残念ながら一本もない。せいぜい『踊る』の一作目のみ及第点。『のだめ』は……わざわざ映画にするより、もう1シーズンちゃんとドラマで完結させるべきだったと思う。その意味では来春続編シリーズを作ることになった『仁』はかろうじて見識を見せた。

確かに不景気で生き残りに必死なテレビ局にも同情はするが、だからといって自局のドラマソフトを大した作品でもないのに映画化などと称して、テレビ局総出でプロモを繰り返し、その影響力のおかげで観客動員数だけは何とか形をつけるというパターンはもうやめにしてほしい。そもそもヒットしたと称するドラマがほとんどカスみたいな話ばかりなのだから、そんなものを映画にしたところで、正味40分のカスドラマが2時間のカスに増量されただけの話である。しかもこのおかげで日本の映画はますますテレビドラマの改変期スペシャルとどこが違うのかというようなものになってしまった。この中から世界に通用するような作品が生まれてくるとは、僕にはとても思えない。

……まあ、今回は要するに白木葉子は香里奈じゃないだろっ、ということを言いたいのが主眼なのでそろそろ本題に戻すが、それを言えばジョーが山Pだってあたりからすでにガタガタではないかという意見もあろう。強いて言うなら力石が伊勢谷友介というのは、僕個人のイメージ的にはちょっとありかも。『ジャンゴ』の悪役はなかなかよかった。でも映画の配役で大事なのはまず主役とヒロイン。その二つが、あの『ジョー』を同時代に受け取った世代の僕らにしてみればとにかく違和感ありまくりなのは致命的でしたな。

もちろん旧来のイメージを裏切ってでも本編が面白く仕上がるならそれでいいのだけれど、先にも書いたように人気漫画の実写化企画には、もともとオリジナルで勝負できない製作者側の発想の貧しさと根性の卑しさがダブルで重なってくる場合がほとんどだから、内容も概ねそれに準じた仕上がりになっているとみて、まず間違いない。

そんなこと言っても原作のタイトル自体にあせない魅力があるものなど、どうしても幼少期に刷り込まれた感動の記憶によって、つい劇場に引き寄せられ、実写化された作品を見てしまうという、まさに製作側の思うツボな行動を取ってしまうこともあるのだが、そんなときは見終わった後に十中八九、酔っ払った勢いに任せてオカマと一夜を共にしてしまった翌朝のような気分になり、なんでこんなものを見てしまったのかバカバカバカと激しく自分を罵り、どうかすると自己嫌悪が高じて危うく鬱病になりかけたりする。

このように見終わった後、明らかに人を憂鬱な気分に落とし込む映画の場合は「どろろ症候群」と呼びならわし、これでも他人には地雷を踏まないよう注意を喚起しているつもりである。無論、観てもいない映画に関しては口を慎むようにしているのだが、それにしても『あしたのジョー』、本当にあんな話、いま映画化してどうするつもりなんだろうとは思う。そもそもあの作品は、現代ではある種の時代劇として描かないとあり得ない設定やら場面が頻出する。ドヤ街とか、深窓の令嬢とかもう死語だろうし、逆にいまは使っちゃいけない言葉だってあるだろうし。

たとえば確か丹下段平は最初、あの近所のガキどもに「ケンキチのおっさん」と呼ばれていたはずだ。あれを熱心に読んでいた頃の僕はまだ中学生かそこらで、この言葉の意味は正直よくわからず、最初は段平の名前が本当は丹下ケンキチという、どっかの建築家みたいな名前なのかと思っていたが、でもそうすると段平は何だ? という問題もあるし、結局あれは拳闘気狂いの略だったのだろうといまでこそ思うが、そういやあの頃は釣りキチもカーキチも普通に社会の中で使っていい言葉だったから、その流れで作られた言葉だったと思われる。もちろんいまは絶対に使えない単語だ。

「深窓の令嬢」だって、別に使っちゃいけない言葉ではないだろうと思うが、こういう言葉に噛みついてきそうな人々というのは今日日どこかにいそうな気もする。言葉に階級制を感じるとか差別意識を助長する単語だとか何とか言ってね。確かめるには今度僕が書いてる原作の中でどこかにこのフレーズを一言混ぜておけば一発でわかる。雑誌に掲載された時にちゃんと言い換えた言葉に変えられていたりするから。昔はいちいち編集部に文句を言ってたが、最近は疲れたし完全スルー。年を一つ取るごとに戦意が一つずつ消えていく。ちょっと中島みゆき的フレーズだな。

昔は、昔ったって40年くらい前だけど、ちょっと育ちの良さそうな女性を形容するのに、あるいは天知茂こと明智小五郎が守る相手を表わす言葉として、この言葉は割と簡単に使われてた。本来は「深窓の佳人」という使い方が正しいのだが、あの頃すでに佳人という言葉があまり使われなくなってきたために、よりわかりやすい令嬢という言葉があてられて一般化したのだろう。赤壁賦を書いた蘇軾の「佳人薄命」がいつのまにか「美人薄命」になったようなものだ。

ちなみに僕は深窓の令嬢を生で見たことなど一度もないので、唯一知っている深窓の令嬢は白木葉子だった。非実在青少年だけど。香里奈の顔は好みだし、万一お願いしますといわれれば喜んでっ!() と応えていつでもどこでもパンツは下ろすが、しかし彼女が白木葉子の役をやるのだけは許せない。乾物屋の娘だというなら、まだしも。どうせ観る気のない映画にこんなこと言うのもどうかとは思うが、要するに白木葉子を香里奈でいいじゃんとこの映画の製作側が思ったのなら、もう根本的にこの物語が変質する可能性、それも明らかにオリジナルのファンにとっては望ましくない変質を是とする態度を、そのキャスティングから製作者のメッセージとして受け取ることになる。

たとえば、僕は漫画実写化映画をかくの如く十中八九けなしているくせに、ふっと『二十世紀少年』なんか見てしまうのは、内容はともかく、あの原作のキャラを実在化するために集めたキャストの顔ぶれに、少しは製作者の心意気を感じてしまったりするからだ。中身は案の定だったが、それでもあのキャストだけを見れば、製作者側の原作に対する誠意と敬意を一応感じる。逆に、たとえば八才くらいの少年に見える少女の役を、どんな発想をすれば柴咲コウなんかに任せられるのか!? その時点で原作の名前と発想のおいしい部分だけいただきたいというさもしい根性バレバレだった『どろろ』などの場合、キャスティングの意図自体、もうそのストーリー云々以前に意味不明。なぜか太鼓も叩くし。

いや、あそこはどうしても柴咲だったと製作側が言い張るなら、その必要を納得させるシナリオをせめて見せるべきだったろう。つまりシナリオで脚色した時点で、どろろを成長したバカ女にするシナリオ上の必然性があったと脚本家が言うなら、類似業の義理で五分の理屈は認める。が、映画を見ればそんなもの最初から何もなかったのだということが一目でわかるスカスカさ。すなわち、脚本家には執筆前にキャストが指示されたはずだ。主演妻夫木、どろろはヒロインで柴崎。当代の人気者二人キャスティングできた俺様の実力はどうよてな感じで。……取り消せ! いまからでも遅くないからあの映画からせめて『どろろ』というタイトルを外してくれっ! あんなものを『どろろ』という名で日本映画史の中に残すな!

……という具合に、いまだにあの映画のことを思い出すと取り乱してしまうのも「どろろ症候群」の一つの顕著な特徴である。で、何の話だったっけ。ハア、ハア、ハア。あ、白木葉子か。

無論僕の白木葉子の解釈とて、僕の個人的な受取り方の問題。そう断った上での話だけれど、深窓の令嬢と虞犯少年のラブストーリーというのは、実は高度経済成長を迎える前の、日本映画界で好んで用いられたモチーフだった。団塊くらいの人なら、南田洋子と長門裕之とか、吉永小百合と浜田光夫なんて風に、コンビのイメージまで湧くだろう。原作の梶原さんの頭に、これらのイメージがあったことは多分間違いない。てゆーか、あの人はこのテーマ大好きだな、きっと。彼の作品には貧乏人Vs.金持ちとか、犯罪者Vs.汚れを知らない少女という構図が繰り返し出てくるが、金持ちで汚れを知らない少女を一言で言えばそれは「深窓の令嬢」。

すなわち梶原さんにとって「深窓の令嬢」はルサンチマン(哲学用語なので適当に使ってみました)であると同時に、永遠に求め続ける渇望の対象でもあった。梶原さんだけではない。あの頃の国民にとって、それは少年であった僕らも含めてということだが、「深窓の令嬢」はたとえて言えば「坂の上の雲」だったのだ。すなわち日本男児たるものは手近の乾物屋の娘ではなく、たとえ身の程知らずと呼ばれようとも高嶺の花を摘み取るべく生きるべき時代があった。二位じゃダメなんですか? ダメに決まっとろうがっ!

つまり『ジョー』という物語世界の中で、白木葉子はそういう存在なのだ。彼女は女神の如くジョーの前に立ちはだかり、ジョーに数々の試練を与え、ジョーをさらなる高みに導いていく。同時に彼女は力石を間に置いた三角関係の一極だとすれば、女神の神性を備えながら生身の女としての俗性をも隠し持っていなければならない。故意か偶然か、あの物語の作者は白木葉子に付加したそんな性格付けによって、単にスポ根とひとくくりにされるジャンルを飛び越え、間違いなくあの時代にある種の神話を描き上げた。寺山修司が入れ込んだのも伊達ではない。

それが果たして香里奈でいいのか? ということを僕は問うている。この物語においてジョーは恐らく無自覚的にではあるが、白木葉子にたどり着くために己の命を削り、実際に遠くない死をも予感しながら戦い続けるという側面がある。香里奈は確かに可愛いかもしれないが、仮に僕がジョーの立場だとして、あんな苦しい思いをするくらいなら、いや、別に俺、優木まおみでもいいし、とか言ってすぐに練習やめます。現に当時は漫画を読みながら、僕は何度心の中で叫んだことか。紀ちゃんでいいじゃんっ!!

というわけでジョーほどの才能もなく、一応プロデビューはしてみたものの後は鳴かず飛ばずで、結局乾物屋の旦那に収まったマンモス西の人生が正解だったと思っている僕は、白木葉子を追うのは、せいぜい32の年までだったなと達観している。

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