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朝まで舐めてれば

先週録っておいた『朝まで生テレビ』を見る。
 
ここ何年にもわたって見かけることさえ滅多にしなくなった番組だが、これでもこの番組が始まった当初は、僕はわりと熱心な視聴者だった。テーマによっては文字通り朝まで、あの頃は5時間くらいやってたような記憶もあるが、番組の最後まで見きったこともよくある。ビデオデッキなんてまだまだ貧乏アルバイトには高級品だったし、金はないが暇なら十分あった頃で、興味あるテーマならとにかく生で見るしかなかったのだ。
 
だから初期の『朝生』を知る者にとって最近のあの番組はもう、朝まで付き合う気になるどころか、見れば深い徒労感と時間を無駄に使ってしまった悔恨を思いしらされる代物になってしまったが、その凋落の最たる原因はやはり、魅力ある論客タレントがいなくなってしまったことが大きい。30年くらい前の『朝生』は扱うテーマもかなり挑戦的だったし、それに合わせて集められた論客の人選も相当に刺激的だった。
 
少なくともここ数年の『朝生』は、たまにチャンネルを合わせてみても、円卓に並んだゲストはその中味が概ね小粒な人しか見かけなくなった。あるいは専門分野などなく、振れば何でも適当に話を返せる便利な存在として使われる人など、はっきり言ってもう自分ごと勘違いしたちんぴらのようなのしかいない。僕が見た折りだけたまたまそういう巡り合わせだったのかもしれないが、いずれにせよ昔のオールラウンダーは、もう少し見識というものを備えた人が両陣営共にいたはずだ。
 

そんな僕がしかし今回とりあえず録画までしたのは、そのテーマが原発だったからだが、なにしろこの時期のこのタイミングである。もしかしたら面白い発言か情報があるかも知れないと思ったものの、その期待は最初のメンバー紹介を見た時点で見事に萎んでいく。
 
さらに番組が始まって比較的最初の方で、何かあまり近海には見かけないタイプの魚類のような顔をした女性が、冷静に考えればわりととんでもな発言をされていたりしたものの、別段それを誰も突っ込むこともなく、あとは昔、『仮面の忍者赤影』第二部の卍党篇に出ていた魔老女そっくりの顔をした女性議員が、相変わらず空気の読めない発言を繰り返されていて、そのこと自体は別にキャラだから面白がればいいのかもしれないが、本来僕が聞きたいと思っていた論戦などこのメンバーではとうていできるはずもなく、1時間くらいで視聴を止め、即刻HDから削除した。
 
30年くらい前は、この番組で原発といえば何度も繰り返してテーマに設定される大ネタの一つだった。当時は珍しいことでもなかったが、それでもこのテーマになるとたいてい後半は大荒れした。栗本慎一郎なんか一言「原発反対なんて誰にも反対できないことを主張する卑怯な連中とは話なんかしたくない」などと一理あるのかないのかよくわからない理屈を吐き捨てて、番組の途中で退席して帰ってったけど、思えばそんな途中退席パフォーマンスも僕の知る限りはこのテーマから生まれた。
 
そんなわけであの頃、まだ原発は熱い話題だったのだなと、いましみじみ思い出す。男同士で酒を飲みに行くと、原発テーマで論争することもよくあった。熱くなってくると口角泡を飛ばし、隣の席の人間が喧嘩と勘違いするほどに怒鳴りあう、そんな酒の飲み方をよくしたし、そんな酒に付き合ってくれる友人も何人かいた。あの頃、編集者は持ち金の少なさに反比例して世の中に対する主張が多くなると喝破した渡辺和博は、まさに明察であった。
 
もちろんテーマは原発とは限らず、僕らは酒さえ飲めば、その日の気分で国内政治や社会問題はもとより、まるで無差別乱取りのように適当な相手を見つけては映画論漫画論セックス論を戦わせたものだが、あれはいまから思えば相手を論破するとか折伏するとかいうレベルの話ではなく、単なるストレス解消の手段だったのだな。
 
そう考えれば『朝生』も、もともと一種のバラエティ番組だったと考えれば間違いはなかった。よく番組中盤で他の出演者を怒鳴りつける映画監督がいて、あれは司会者の机の下あたりに「バカヤロースイッチ」というものがあり、場がだれそうになるとそれを押すことになってるなどと言われたりしたものだが、あの番組自体がエンターテイメントだと思えば、別に本当にそんなスイッチがあったって非難される筋合いのものではない。
 
どんなに真面目で深刻なテーマ、原発も戦争責任も憲法も、『朝生』で採りあげられた途端、ただの「ネタ」になる。実際、あの番組で採りあげられたテーマが、あの番組内の論争を経たことで深刻な問題点があぶり出され、結果的にそれをきっかけに何か改善された、あるいは世間の風向きが変わった例など僕の知る限り一つもない。あれはテレビというメディアを利用したある種のガス抜き装置であり、その意味では後に有名になるインターネット掲示板の先駆けの形であったかもしれない。となると最近の『朝生』の論客のレベルがああなってきた理由もわかる気がする。
 
今回の原発事故が起きて、テレビには福島原発に直接間接に関係のある実に様々な人が出てきて「想定外」という言葉をよく聞いたが、その言葉を聞くたび、僕などは最初から違和感を覚えていた。原発が巨大地震に見舞われたらどうなるか、津波に襲われたらどうなるか、その際、こういう事故が起きたらどうなるか、どれほどの危険な事態になるかということは、その昔、この『朝生』によく出てきた反原発派の学者、作家、ジャーナリストなどの論客が(完璧とは言わないが)ほぼ予告していたはずだからだ。
 
政府や東電がシーベルトが増えたの減ったの、人を一喜一憂させるようなことしか言わずに、肝心なことを何一つ発表しないのは、もしかしたらこの人たち自身、次に何が起こるかわかってないのではないかという、ある意味、最大の恐怖感にさえとらわれることがある。だからいま僕が聞きたいのは、かつて反原発派とレッテルを貼られた人たちの言葉だ。もしかしたら、いまの事態を一番正確かつ冷静に解説できるのはあの人たちくらいしかいないのではないかと思ったからだが、あいにくいま現在、テレビのニュース番組や特集には誰一人出てこない。
 
別にこの事故が起きたからということではなく、どういうわけかこの30年くらいの間に少なくともテレビや雑誌では、心情的にではなく実際にという意味だけれど、いわゆる反原発の発言や活動をしている人はまったくといっていいほど見かけなくなった。それはつまり原子力発電が国策として、完全に既定路線になった経緯と一致している。それはかつて『朝生』の論争などを聞いて、やっぱり原発は危ないのかあなどとぐらついていた僕などのような人間も、いまやすっかり目指せオール電化なスローガンに何の違和感も感じなくなってしまった30年ということでもある。
 
とはいえ、僕は必ずしも反原発派の人たちの言うことを信じるといってるわけではなく、とにかく誰かいまの事態を説明できる人の話を聞きたいだけだ。もしその人たちの発言に間違いがあるなら、それを原発推進派が突っ込めばいいだろう。どちらに合理性があるかは、論の立て方さえしっかりしていれば、案外ずぶの素人でも見当くらいはつくものだ。
 
というわけで、僕が久々に『朝生』を録画までした本当の理由は、もしかするとかつての人脈を活かし、久々に反原発派の論客と推進派の論客がガチで勝負する姿が見られるのではないかと期待したためだったのだが、結果は……orz(って、こーゆー使い方でよかったっけ?)

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