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あの頃、みんなげばげばだった夏

またも訃報を聞く。マエタケこと前田武彦さん、82才で亡くなった。もちろん個人的に知ってる人ではないが。
 
僕らの世代はテレビ草創の頃に生まれ、まさにテレビの世界が手探りでいろんな試みをしながら巨大な発展を遂げていく時期と重なるように成長期を過ごしてきた。テレビっ子なんて言い方があった頃だ。幼い頃はそれなりにアニメやら人形劇やら(昔は影絵の番組なんてのもあった)特撮ものやらを見て楽しむわけだが、だんだん中学生くらいになってくると、歌番組やらコント番組やらクイズ番組やらドラマが気になるようになってくる。
 
この歌やらコントやらクイズやらの番組が、後に言うバラエティ番組の源流だが、このテレビの娯楽性を徹底的に追求して礎を作っていった人々の仕事を、僕らは目の当たりにしている。
 
今年になって僕は『僕らの時代』で、小沢昭一、前田武彦、大橋巨泉の3人を。『徹子の部屋』で小沢昭一、加藤武、永六輔の3人を目撃しているが、それはもうそれほど遠くない時期に、この人たちを見ることは永遠になくなるんだろうなという、もしかするとテレビ局中枢あたりで、何かそんなことを思い立った人がそれぞれの局にいたんじゃないかと思ったものだ。だからまだ体が動いて話が聞けるうちに、この人たちの話を聞いておこうという殊勝な心がけが多少はあったんじゃないかと。
 
少なくとも30代より若い人にはテレビ局の社員でさえ、この爺さんたちの正体はちんぷんかんぷんだったろうからね。案の定、この中からまずマエタケさんが旅立った。
 

小沢さんや加藤さんは、僕には役者としてのイメージが一番強く、永さんは作詞家としての実績がすでに巨大だった。だから僕の感覚でミスター・テレビジョンといえば巨泉、マエタケ、この2人に青島幸男を加えた3人だったという時代がある。
 
この3人に共通するのはテレビの構成作家を経験しているということだ。主にバラエティ、あの頃はショー番組と言っていたか、そこに卓越した才能を発揮した。それが、いつの間にか裏方から堂堂と表に出てきて役者や司会、コントもこなすようになり、少なくとも軽妙な会話術に関しては本業のエンタテイナーより面白かったりした。タレントを直訳すれば才能ということだが、その意味ではあの人たちくらい、タレントと呼ぶにふさわしい人はいなかった。
 
少年時代の僕は、この3人の中で一番好きだったのが『いじわるバアさん』『泣いてたまるか』で役者もやってアピール度の高かった青島幸男、その次が『夜のヒットスタジオ』で司会もしていたマエタケで、『お笑い頭の体操』など、次々ヒット企画をものしていく巨泉さんは実はあまり好きではなかった。うちの母も巨泉が嫌いだったから、多分に母の影響も受けてるかもしれないが、基本的に母はでかい顔をする人間は大嫌いだったからなあ。
 
青島さんがだんだんテレビから距離を置き始めると、バラエティの両巨頭はなおさらくっきり目立つことになり、別に本当に仲が悪かったわけでもないだろうに、見ている側としての僕は、芸風や見た目の印象から、この二人は不倶戴天の関係なんだろうというストーリーを勝手に作り上げていた。だからこの二人がいきなり共演して番組を始めたときは、子供心にけっこう驚いた。え、共演できるんだ、この二人? という感じで。
 
それが数々の伝説に彩られた『ゲバゲバ90分』で、一言で言えば1時間半のコント番組という身も蓋もなさだが、多感な中学生の時期にあれを見られたというのは、まったく、まったく幸運なことであった。それくらい、あれは奇跡のような番組なんだけど、あの時代の中であれを見た経験のない人には、まあ伝わりづらいだろうな。いまでは別に珍しくもないが、星新一が書いたのかと思うような不条理コントも、あの辺りから定着を始めた。だからタメゴローは毎回驚いていたのだ。
 
巨泉さんはいまでもたけしや紳助といった現在のテレビキングに「いじられながらも一目置かれる存在」という位置に立つことによって大物感をキープしているけど、あの頃の僕に言わせれば巨泉なんて、青島さんやマエタケさんに比べれば、ちんぴらみたいな小物だった。若干14、5才の身で巨泉をちんぴらと言ってのける中学生なんてのも、いまから思えばかなり嫌みな奴だったに違いないが、僕は確か当時の日記にそんなこと書いた覚えがある。
 
巨泉さんがテレビ界でトップに立てたのは、もちろん彼自身の才能と努力もあるだろうが、最も大きな要因は先述したように、青島さんがテレビから離れて政治方面に行ったり、マエタケさんがテレビから完全に消えてしまったせいだ。一般的にはマエタケさんの共産党万歳事件が契機で、彼はテレビ界から干されたことになってるが、それは本当にそのせいだけなのかどうかは僕にはわからない。
 
本当にそのせいだけだったとしたら、当時のフジの総帥、鹿内という人は、ものすごいことをしたものだ。だって本当にどの局からも、一切マエタケさんの姿を見ることはなくなってしまったのだから。北野誠だって、なんか芸能界のドンの逆鱗に触れたとか何とかで番組降板とか謹慎とかいう話がちょっと前にあったが、でももう結構復帰してるでしょ? マエタケさんの場合は、確か十年近くくらいテレビには戻ってこなかった。それにテレビ界にとっての損失度とか存在の大きさを考えれば、北野某のようなチンピラとはわけが違う。
 
それを完全に干したのだから当時、反共・右派で鳴らした鹿内の面目躍如というものであったんだろうな。僕がフジ・サンケイというものを嫌いになっていく一つのきっかけは、だから決してあそこのオーナーが発散するイデオロギーの臭いなどではなく、僕の好きなマエタケさんをひどい目にあわせた、というその反感からだったことが大きいように思う。その点では頭の悪いタレントがツイッターでフジは韓国のテレビ局かなんぞと呟いてたのと似たレベルの話。つまり、無視するのが正解。
 
僕が久々にマエタケさんの姿をテレビで確認したのは、忘れもしない、……といった尻から忘れてますが、番組名は何だったか忘れたものの、確か朝にやってるおはよう番組の一種だったと思う。そこの天気予報のコーナーを見た僕は、マジで目を疑った。あれは台風が来てる日か何かで、屋外で横殴りの雨に打たれながら、レインコートを着て手に持ったフリップで天気解説しているおっさんは、誰あろうマエタケさんだったのだ。
 
な、なにしてるんだ、マエタケッ! こんなところでっ!?
 
と思わず、僕はテレビの前で叫んでしまった。ぬくぬくとしたスタジオから中継現場のマエタケさんに呼びかける男女のキャスターに、おまえらっ、おまえらがなあっ、そんなとこから気安く呼びかけられるような、そんな人じゃあないんだぞ、あの人は! おまえら、それわかっててやってるのかあっ!! なんて感じでね、心の中ではの話だけど。
 
マエタケさんは何と、僕の知る限りは、つまり僕にとってのマエタケさんのテレビへの復帰は、お天気おじさんとしての姿であった。まあ、その頃は僕もけっこうな大人になっていたし、あらためてそこで、殿、おいたわしや、などという気分になることもなかったが、でも何となく、一抹の寂しさを覚えたことは記憶に残っている。
 
まあまあ、その後は徐々に役者としてちょくちょく映画に出たりするようになって、たとえば大林さんの吉永小百合主演で撮った『女ざかり』における、ベテラン新聞記者の役なんか、もうまんまこんな感じのベテラン記者っているだろうなという存在感だったのが嬉しく、つまり年相応に、あるべき位置に戻ってこられたんだなと、そんな感じであった。
 
郷愁を含む記憶は、頭の中だけにあるのではないな。その記憶を共有する人々、あるいはその記憶を構成する実在の人物、これらも個人の頭の中では記憶の一部と呼んで差し支えないのではないだろうか。マエタケさん死去の報を聞いて、ふとそんなことを思ってみたりした。

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