けっこう需要あると思いますよ
実はもう今週の月曜の話だけど久々に妻とマイカル八幡で映画。
この日はたまたま妻のバイトが休みで彼女は三連休ということになり、実際この秋は三連休がけっこう多いのだが、僕は仕事の遅れで近場の喫茶店とスーパーとコンビニの間をぐるぐる回るような生活しかしていないため、どこかへ連れていってあげなきゃと焦った末が久々の映画館であったと。
しかも彼女、一番見たいと言っていたのが例の人工衛星に感情移入させて盛り上げようという『HAYABUSA』で、次に見たいと希望したのが『LIFE』。あいにく人工衛星にも動物ドキュメントにもまったく興味のない僕が、これなら見てもいいよと言ったら彼女も妥協して承知したのが『モテキ』である。結局、単に俺が見たい映画を見に行っただけの話じゃん
この映画、僕はドラマ版も原作もまったく知らないので、おそらくドラマ版の方もそういう要素があるんだろうとは思うが、早い話、『下妻』や『松子』ばりの突拍子が抜けたシーンが随所に挿入される。おかげで最初妻は、なにこの話!? みたいな感じで始まってからしばらくは当惑していたようだが、徐々に慣れてきたのか終わったら、まあまあ面白かったという感想をのたまわれた。僕もね、面白さの度合いを聞かれたらそんなものかなとは思う。
もちろん退屈な要素はほとんどなく、テンポもいいしキャラもいい。面白いかつまらないかと聞かれたら僕は文句なく面白かったと答える。でも、たとえば『アフター・アワーズ』のときみたいに大絶賛してないよねと言われたら、まあ、そうかもしれないけど、それにはそれなりの理由というものがあってですな、その最大の理由が多分僕はこの映画に、あまりにもどハマリしてしまったせいだろう。
ここで、お約束の一言。とはいえ、この映画に関してはそれほど大した問題ではないと思うけど、一応以下の感想文はいわゆるネタバレを含んでいるので、これから映画を見に行くつもりの人はここから先は読まない方が賢明。見終えたらまた読んでみてくだされ。
昨日、仕上げた原稿を担当に送り、そのあと電話打合せをした折に、たまたま『モテキ』の話が出た。なかなか面白かったよぉと感想を述べると、担当の巨乳S女史は意外そうな声をあげた。
「へえぇ、あれは私、ちょうど主人公が同い年くらいで、それで劇中に出てくるサブカル系のキーワードや小道具もどんぴしゃって感じで、私は面白く見れたんですけどぉ、宇治谷さんがあれを面白いっていうのは、ちょっと意外」
なんだと?() 僕はちっとばかしおつむにカチンの森ときてしまったね。おめえ、ずいぶん人をジイさん扱いしてくれるじゃねえか。それから僕は、この失礼な巨乳相手に30分ばかり、この映画のどこがよくて何が惜しかったかを説明したのだけれど、いまから考えてみればそれは、僕なりにちゃんと筋道をたてたドラマツルギーなどではなく、単に俺の思い出話をしていただけだったのかもしれない。
確かに僕はもともとアニメ以外のサブカルにはそれほど詳しくないし、現在に至っては何をふられようとほとんどちんぷんかんぷんである。ただしこの作品、サブカル要素の扱い自体にどやさ的感覚で大きな意味を持たせるようなものだったなら僕はここまでハマらなかったろう。そもそも現代を描く映画にその時代付けのふりかけとして様々な要素が画面に情報として詰め込まれるのは当然の話で、僕らだって若い頃はホイチョイ系の映画で楽しんだりした。
森山未來が浮かれた気分になっていきなりperfumeと踊り出すシーンも全然オッケー。昔、僕は原稿取りの合間に立川駅の公衆電話から意中の女性に電話したことがあり、とりあえずデートOKの返事をもらった後、僕はホームの端から端まで踊って往復したことがある。だからあの時の主人公の気持ちは実に自然に理解できた。そう、つまりこの映画、一見とんがってるように見える小道具と演出を取り除き、ドラマの骨だけを見ていけば、極めてオーソドックスなラブ・ストーリー以外のなにものでもないことに気づく。オーソドックスとか古典的という言い方が嫌ならスタンダードと言い換えてもいい。スタンダードとは普遍性ということだ。僕がこの映画の何に一番感心したのかというと、この普遍性だ。一言で言うなら、三十年たっても独身の若い男が恋に悩む悩み方って、ほとんど変わらねえもんだなあ、ということ。
ここからは僕の話。モテキなんて言葉がいつ頃から使われ出したのか知らないが、どんなモテない奴にも一生に一度くらいはモテキがあるなんていう事象が本当なら、僕も20代の半ば頃、だからいまからちょうど30年くらい前、モテキがあったんだろうということになる。僕の場合は、恋が攻めてきたあ的な状況というよりは、なんかいまの俺、恋に攻めてけばけっこういけるかもという妙な自信が体内に溢れていた時期であったが。
そんなこと言いながら僕はこの主人公と同じく、セカンド童貞な日々を送る若者でもあった。休日に新宿で映画のハシゴをしながら仲むつまじげにカップルで映画を観に来ている客の後ろ姿を見ると、いま女と付き合ってる奴、全員死ね! とかきっと一人でぶつぶつ言ってる奴であったことは違いない。もう、朝まで酒飲んで夜明け前の吉野家に立ち寄っては、朦朧とした頭で狼になりたがっていたです。はい。
ところがこの直後に、なぜかいきなりモテキがきてしまった。あれは24の年だったろうか。
生まれて初めて恋人というものを持ち、だけどその彼女と付き合ってる最中に別の女性を好きになってしまい、それまで付き合ってた彼女にはいきなり、ごめん、ほかに好きな人が出来たとか言って別れ話を切り出し、その好きな人とはまだそんな関係を持つような関係ではなかったのだけれど、でも他の人を好きになってしまったのにこれ以上、君とつきあっているのは男として卑怯だと思うなんて、思い切り自分の理屈だけに酔った勝手なことを言って別れを宣言し、彼女が毎晩電話してきて電話を取るとただ電話口の向こうで泣いて、何でも俺の思うような女になるからあとか言われても、それが重いんだよおまえはみたいなこと言って電話を切り、しかし結果的に僕が好きになった女性にもどうやら別の男の影があって、かなりストーカー的に粘ったんだけれどとうとうふられてしまい、最後は誰も僕の側に残らなかったという……まんまあの映画じゃん!()
そう思ってみれば、あの映画の主人公を取り巻く舞台と当時の僕の世界も似たような匂いを持っていた。僕は当時まだ下っ端の新人編集者で、そういやあの業界には確かにリリー・フランキーみたいな先輩もいて、基本的にすごくいい人なんだけど下半身にまったく節操がないタイプって、あの業界にもちょくちょくいたからなあ。僕が好きな女にフラれたと言って、ぐでんぐでんになるまで付き合ってくれた当時テレビ局の下っ端だった友人は、完全に参ってる僕の耳元で「いまごろ彼女は別の男とセックスしまくってんだぜ、ひっひっひ」と囁いては僕に首を絞められていたが、映画にも似たようなシーンがあって思わずそこは吹きだしてしまった。
もうおわかりだろうが、だから僕はあの映画を作品として冷静に見てない。見られなかったのだ。そのかわりに、森山未來の勘違いぶりにこちらの顔はどんどん赤面してしまい、麻生久美子の号泣に胸がえぐられるようにずきずきと痛んでしまい、長澤まさみのあなたじゃ私のためにならないという言葉に、思わずうっと息の詰まる思いをしてしまう。肩の凝らない娯楽作品として楽しく見るつもりだったのに、蓋を開けてみれば30年前の自分の恥ずかしい姿を目の前に突きつけられたような、そんな映画をあなた、文句なしの傑作なんて大絶賛できると思いますかいな。
最初に普遍性のあるラブ・ストーリーと言ったけど、たとえば僕のようなハマり方をしてあの映画を見る人はそういないかもしれない。東京という舞台、マスコミ(的)な職場など幾つか特殊な要因はあるからだ。僕らはほぼ毎日、仕事が終わると新宿の酒場辺りで安い酒に酔っ払い、たまにはカウンターで意気投合した女子1名から数名とさらに朝まで飲み屋を経巡り、どうかすると朝、目が覚めたら僕の部屋に女子数名がそのままなだれこんでることもちょくちょくあった。もちろん映画と同様、その程度のことでつきあうような関係ができるわけなど、まずない。もちろんその逆のパターンもちょくちょくあったのだが、結果は同様。
だから僕が映画を観終わってまず感じたのはただ一言懐かしい、だ。あの頃、携帯もツイッターもなかったのに、好きになってしまった女性のことを思って四六時中悶々としていた僕の姿に、僕はこの映画の中で再会してしまった。そんな独身男子の心情の6~7割はあの映画の中で描き尽くされていたと思うし、だとすれば女に関して昭和バブル前夜男子と平成男子の頭の中って、ほとんど変わってないんじゃないかという、そのことに気づいて僕は少し驚いてしまったのだ。こんなサブカルふりかけ満載のお調子映画に見せながら、中味は直球ストレートなラブ・ストーリーじゃないかと。僕がスタンダードだと言ったのはそういうこと。
一つだけ難を言えばラストシーン。あれはなあ……たとえばこれがアクション映画やサスペンスだったりしたら、あの終わり方はありうる。恐らく主人公はヒロインのために命を賭けて戦った後だろうからね。でも、この物語において命がけはない。だとしたら、最後の二人の笑みはいったい何を意味するのか。まさか長澤まさみ、あの程度のことで主人公に鞍替えするのか!? とか、それがわからないので、この映画にちょっとした迷いを残してしまう。この映画の主旨から言ってもふられるにしろアタック成功するにしろ、最後はスカッと結論を見せてほしかった。というのが僕のささやかな不満。
付け加えればこの映画、噂通り女優陣はいい。特に長澤まさみがあんなに可愛くて感心したのは、映画・ドラマを通じて初めて。中盤の展開であることが起き、普通の男子なら十中八九(もちろん俺もっ!)、麻生久美子で何の不満があるというのだ! 麻生久美子でいーじゃんっ! と思う事態になるのだが、半端な女優じゃ観客のその感情の流れを跳ね返すのは難しかっただろう。
ところが、あの事態を越えてなお長澤まさみを見れば、確かに麻生久美子を捨ててこっちにトライする価値はあるかもと思わせるだけのオーラが、長澤まさみの全身からきらきらと光って溢れているのだ。おそらくそういう風に撮影する工夫もいろいろされてるのだろうが、ものすごく久しぶりに女優を撮るのがうまいと感心してしまう監督の仕事に出会った。
ちなみにタイトルの言葉は、仲里衣沙のホステスが意気消沈する主人公に、あんたみたいなタイプってけっこう需要あるのよって感じで囁くセリフ。その「需要」という言葉の使われ方が妙にリアルで、あ、なんか俺もそんな時期あったかもと、なぜか心に残る。別に彼女のファンではないのだが、あの映画に関する限り、彼女はいい存在感を醸し出していたので、彼女の出番が少なかったのがちと惜しい。
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コメント
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「好きだった女は今頃不幸のどん底にいる」と信じて、前向きに生きていけばいいよ。ともあれ、オレこの映画のエグゼクティブプロデューサーしてたんだよ。麻生久美子のビジュアルだから「不満は贅沢」なんだけど、しずちゃんとかだったら同じことが言えるのか、というあたりが「現実への問いかけ」だわな。
投稿: NAKAO | 2012年7月25日 (水) 12時11分
おまえはさ、だってあのとき朝まで俺につきあってくれながら、彼女はいまごろ誰か別の男の○○を舐めているとかへらへらしながら言い続けてたんだぜえ~() ……首くらい絞めさせろ!
何にせよ、あの映画は面白かった。ちゃんとクレジットまで見てなかったので君が関わってるとは知らなかったが、去年見た邦画の中では出色の出来だった。やるじゃん!
投稿: ujikun | 2012年7月27日 (金) 12時21分