« 珍しく朝ドラなんぞに | トップページ | かまくら »

ああ、なるほどねという話

昨日『カーネーション』が面白くなりそうだなどとこの欄で書いておきながら、でも僕はこの脚本を書いている渡辺あやという名前に心当たりがなかった。
 
気になる脚本家が出てくると、僕はたいていネットの力を借りてその人は他にどんな作品を書いてるかとか調べたりするものだが、『カーネーション』の場合はまださ、なにしろ長丁場だから……本当にこのまま面白いと言い切れる作品になっていくかどうかわかんないし。なんて感じで、ともあれネットで調べたいと思うほどの段階にはまだ至ってなかったのだな。
 
ところが今日、仕事しながら、仕事のために集めた資料ファイルなどをHDの中からファイラーで探している時に、僕がテンポラリー用に作ったフォルダーの中にですな、意外にも見つけてしまったのです。渡辺あやの名前を。
 
それは数ヶ月前に妻の弟くんが僕に送ってくれたファイルで、シナリオを読むのが好きな彼は、以前、僕がこのブログで、NHKで放映した原田芳雄主演の『火の魚』をほめていたのを覚えていて、月刊ドラマに掲載されていた『火の魚』のシナリオをわざわざスキャンしてPDFにして送ってくれたのだ。ファイル名は「渡辺あや火の魚.pdf」。なぜ覚えてなかったんだ!?
 
まあね、不思議なもので渡辺あやという名前をまったく気にしてなかったときは、ファイラーの中で何度その名前を目にしていても、するっと通り過ぎていたらしい。『姑獲鳥の夏』のトリックも成立するわけだな、そりゃ()。もちろん、これで即座に僕の頭の中に渡辺さんの名前は完全にインプット決定。
 
ついでに幾つか彼女の過去作リストを調べてみたら、たとえば妙な味わいと後味が心に残る『ジョゼと虎と魚たち』もこの人の作品だし、僕は未見だが芸術祭関係で軒並み絶賛されていた『その街のこども』という作品をものしている。つまり、今回の朝ドラを書いていたのは十分力のある作家さんだったんだ。もっとも力のある作家が常に傑作をものするとは限らないという例を、僕たちはもう何度も見てきているはずだが。
 

土曜に録っておいた『パーマネント野ばら』。僕はこの原作の大ファンなので映画化の企画を聞いたときは大喜びし、映画のキャストを聞いてからは不安で胸一杯になったりしたものだが、実際に見てみたら予想通り、不安の方が当たっていた
 
もちろん役者さんは個別に見ればそれぞれ水準以上の役者さんであり、時に化物みたいな芝居を見せて楽しませてくれたこともある人たちだ。管野美穂、夏木マリ、小池栄子、どの人もちゃんとしてるでしょ? ところが映画の冒頭から何かハマらない。ずっと違和感を持ったままとりあえず20分ほど見たところでちょっともう、我慢できずにやめました。
 
まあ、もともとキャスティングがどれも僕の持っている原作のイメージと離れた人たちだったから、逆に言えば彼女たちがどう化けてみせるかという興味は若干あったのだけれど、何だか冒頭のパーマ屋でのおばさんたちの下品な会話から宇崎竜童のやんちゃな親父まで、どうにもセリフが上っ滑りで、むしろベテラン漫才師が30年前のネタで客を笑わせようとしている漫才のように、どこか聞いていて痛い。
 
これ、もし僕が原作をまったく知らないで見たらどうだったろうと想像してみたが、やっぱりせいぜい微苦笑するくらいで、痛いことには変わりなかったと思う。漫画だったら笑えたセリフが、実写でほぼ同じことを言われても、素直に笑えないのだ。
 
漫画を実写化する場合、成功を狙えるアプローチはただの2つしかなくて、なるべく原作に近い形を固守する、すなわち漫画のコマをそのままコンテにしたような作品を作るか、原作の設定、キャラなど骨組みだけもらって実写表現としてほぼ別作品になっても構わないくらいに割り切って作るという方法のどちらかだ。前者の成功例がたとえば『のだめ』であり、後者の失敗例はもう、漫画を原作とした作品のほぼすべてといっていい。
 
ただしこれは日本の場合だけで、米国なんかでは『バットマン』にしろ『Xメン』にしろ、むしろ後者の成功例がほとんど。これは単純に映画作家の彼我の脚本能力の違いと考えることもできるが、それでいえば最近は、日本の漫画を原作にした韓国映画やドラマにさえ我が国の作品は負けてるのではないかと思わせられることが時々ある。
 
まだ韓国オリジナルの作品に負ける方が納得もいく。日本の原作だぞ。日本の漫画家たちが努力の結晶として産み出してきた作品を、なんで韓国人が実写化したドラマの方が面白いと感じてしまうのだ。明らかに漫画の人気にのっかって、その漫画家の3分の1程度の努力もしないで企画とキャストだけで楽に視聴率を取ろうという卑しい魂胆が、作品そのものの質を劣化させ、ひいては日本人全体の質を劣化させているのだ!
 
そんなことでいいのか、日本! たとえば『どろ○』とか、日本人にとって神様とも呼ぶべき存在の人の、しかもやりようによっては物凄く深い宿業にまみれた大伝奇ロマンにもなりうる作品をあんな支離滅裂の薄っぺらな作品にしやがって、あれに関わった脚本家と監督は恥を知れ、恥をっ! はあ、はあ、はあっ、……と本当は叫び出したいところだが、今日の目的はそんなことじゃないので、この話題はこれくらいで。しかしあの映画、思い出すといまでも腹立ち紛れにビール3杯までは飲めると考えると、それはそれでインパクトあったのかもしれん。
 
『野ばら』に戻ると、とりあえずあの脚本家は、どこかあの原作の魅力を勘違いしていて抜き出すべき要素を間違えている。監督も見せるポイントと演出を外している。ま、さっき見たばかりでいまこれを書いてるので、ちょっとまだうまく整理できてないが、たとえば小池栄子が自分を裏切って浮気した相手を轢き殺そうとして、逆に間違って旦那を轢いてしまうエピソード。重症を負った旦那が気になって小池がその病室へ見舞いに行くと、結果的にまた言い争いになり、点滴とギプスで固められた旦那と病室で取っ組み合いの喧嘩になってしまうという展開。
 
あそこは原作では、旦那の病室に女房が見舞いに行くと、瀕死の重傷を負っていたはずの旦那は意外にさばさばと、俺を轢き殺しに来るとはさすが俺の女房じゃみたいな感じで、うろ覚えだけれど確かそんなことをにこにこして言うシーンになっていて、そこで僕らは南国気質の人間らしいスケールの違うおおらかさと、明らかに今度は殺されると思った旦那が嫁さんに媚を売る木っ端らしい計算高さとか、いろんなリアルを感じ取れたものなのに、あの映画の病室での取っ組み合いは画面的には一見派手かもしれないが、あそこにリアルはほとんど感じられず、リアリティのないところに笑いなんか絶対生まれない。ま、20分しか見てないので全部そうだとは言い切らないが、前半を見る限りあの脚本は、せっかくの西原さんの神話的な原作に対してそういう取り違え方をしている。
 
そんなわけでちらっとね、もしあの映画の脚本を渡辺さんみたいな人が書いてたらどうなってたろう、などと夢想してしまったのだ。彼女には確か、漫画を原作にした『天然コケッコー』という作品もある。ま、俺はあの作品、夏帆ちゃんしか覚えてないけど()
 
『野ばら』ハードディスクから消そうかどうか迷ってるのは、誰かネットの感想か何かで、最初の方は確かに違和感あるかもしれないけど、最後まで見てるとけっこう泣けるよと書いていた人がいたからだ。それで一応、最後まで見て見ようかなと思ったりもしてるのだが、なにしろいまは忙しいすから。無駄な時間、ほとんど過ごせない状態すから。人が横から見てるとぼうとしてたり、布団の中で横になってるようにしか見えないかもしれませんが、それ、全部頭の中でいろんなキャラがあーでもないこーでもないと喋り続けたりしてるんすから>妻。
 
でも最後まで見て、やっぱり耐えられないほど痛かったら、またここでけちょんけちょんの素材にして、少しは憂さを晴らさせてもらうことにするか。

« 珍しく朝ドラなんぞに | トップページ | かまくら »

映画・テレビ」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ