« なんだか地味な「感染」 | トップページ | 迷宮の中を行く快感 »

糸ちゃん猛進中

今日は「朝ドラ」の話。「朝ドラ」と言っても、これは「もしも朝青龍がドラッカーの『マネジメント』を読んでモンゴルで商売を始めたら」という本のタイトルの略などではないので念のため
 
もはや、今期だけではなくここ数年のドラマの中でも、ここまで感心した作品はだんだん覚えがなくなってきた『カーネーション』だが、これだけ僕が騒いでるのに周りで見ている人間がほとんどいない()。「俺、サラリーマンだから朝ドラなんか見ないし」なんて平気で言われる。まあな、この「朝ドラなんか」という言われ方自体にすでに近年の朝ドラの立場とか地位とかが見え隠れしている。
 
だいたい僕が、朝ドラで脚本の出来とか役者の演技とか演出のセンスなんてものについて語りたいなんて思う日が来るとは予想もしたことがなく、たとえば『南極大陸』のようなドラマなら、脚本の出来とか主役の芝居とかけちょんけちょんにけなされても、ま、主にけなしてるのは僕だが、でもそれはそこで勝負しているドラマのはずだから、脚本や演技や演出を批判されたり評価されたりするのは仕方がないことだと思う。朝ドラに関しては、そういう部分で評価するものではないという一般認識が出来上がったのではないか。
 
身も蓋もない言い方をすれば、いまの朝ドラって基本的にはまともなドラマ扱いされてないんじゃないかと。ただ出勤前の時計代わりにつけておく画面なものだから知らないうちに話もヒロインも変わってしまってることもよくあったりして。もちろん話によって今度の朝ドラの視聴率はよかったの悪かったのなかなか伸びないのといった話も繰り広げられるけど、いまどきの視聴率なんてよくて20%前後の攻防だもんね。
 
あれを毎朝、家族そろって見ている光景なんかもう考えられないが、30年くらい前までは朝食とりながら家族で見るなんてこともあったはずだ。あの頃に比べれば家族の光景自体がずいぶん変わってしまったから仕方のない面もあるものの視聴率の話が出たついでに言えば、あの頃の朝ドラの平均視聴率なんて軒並み30%は超えていた。そこそこ好調なドラマなら4割超は当たり前で、『おしん』なんか平均視聴率で50%越してたんだからね
 

この話はいま、朝ドラではお約束の戦時中モードに入っている。普通朝ドラのヒロインて、最初から戦争反対の立場を貫いているか(政治的にではなく心情的にだが)、戦争をよく知らない無垢の存在として描かれることがほとんどである。
 
後者の場合はもう説明も何もいらず、子どもだったからということで完全に戦争をスルーさせるか、あるいはまったくの軍国少女でしたということで出征兵士に旗を振らせたりする。ま、こんな少女たちがいっぱいいたことは嘘ではない。
 
前者の場合は、たとえば自分の息子なり友人(または恋人・夫)なりが赤紙で招集されたりして、自分の息子がお国のために頑張ってきます! みたいなことを張り切って言うといきなりヒロインが張り倒したりする。あるいは恋人や夫が招集されれば、涙ながらに必ず生きて帰ってきて下さい、なんて愁嘆場を見せたりするのが、わりとよくあるパターン。
 
もちろん庶民の女の本音としては、そういう気持ちになるのもわかるけれど、あの大本営発表のように情報が徹底して隠蔽され、皇民教育の行なわれていた時代に、そんな人間、しかも女性がそうそういたとは思えない。つまりあれは現代の目線で作り出されたあの時代の人物だということは意識しておく必要がある。もし僕がそういう状況でそんなヒロインを作り出さざるを得なかったとしたら、ヒロインが外交官の娘で、親父の秘密資料をこっそり盗み見する癖があったとか、幼なじみに亡命ユダヤ人がいてとか、それなりに頭を絞ってそのキャラが不自然でなくなる理由を考えようとするだろう。
 
もちろんそんなこと言い出せば時代劇なんか見られなくなっちまうから、まったくすべて否定しているわけではないけれど、ただ『カーネーション』のヒロインは最初、戦争に何の疑問も持っていないところから描いている。幼なじみの友人が徴兵されてしょげているのを見て、ヒロイン糸子は名誉なこっちゃないか、それでも男かと活を入れたりしているのだ。これはあの時代の人間として極めて自然な態度である。友人の出征を祝う会はほとんど宴会で、ここまで日本は勝ち戦しかしてないから、糸子の親父を始め、集まってきた近所の出征経験のある大人たちは口を揃えてあんなのちょろいもんやと友人を励ましてやる。太平洋戦争が始まる前はまさにそんな雰囲気だったろう。中国では連戦連勝ということにもなっていたし。
 
だが糸子は、あるきっかけからこの戦争に疑問を持つようになる。それは政治的にどうこうということではなく、単にその友人が戦地から母親にあてて出した手紙に、ところどころ墨が塗られているのを見て、軍はけったくそ悪いことをしよる、という感想を持つのである。この糸子ならではの感じの作り方が実にうまい。とはいえ、僕が今週に入って感心したのはそこではない。
 
そうこうしてるうちに糸子の友人が帰ってくる。まだアメリカとの開戦前だから軍にも余裕があったのだろう。戻ってきた友人は極度の鬱状態になり、家から一歩も出ず、人ともほとんど話の出来ない状況になっていた。いまならさしずめPTSDだと言われるだろう。ちなみにいまでは個人の恐怖体験や激しいストレスによる発症でもこの名称が使われるようになったが、もともとこの言葉はベトナム戦争の帰還兵に多く見られた症例に名付けられたものだ。
 
糸子はこの友人を励ましてやろうと、ある日この男を連れ出して喫茶店に行き、そこへ彼の初恋の女を連れて来てやる。もちろん糸子には何の悪意もないことだが、その女と再会した途端、友人はパニックに陥り、叫びながら店を飛び出していく。その夜、糸子を友人の母親が訪ねてくる。この母親役は元モダチョキの濱田マリだが、この迫力も堂に入っていた。友人は家に戻った後、自殺未遂を起こし、やっとのことでなだめたという。濱田マリは怒りに震えながら糸子に叫ぶ。二度とうちに来るな。二度とあの子に近づくな。あんたみたいな強い子には、弱い人間の気持ちなんかわからんやろ!
 
この後の糸子が凄い。戦争初期の庶民の描き方だけですでに従来のぬるい朝ドラとは一線を画しているのに、このヒロインは友人の母親になじられて逆に居直ってしまうのだ。あの母親は、商売も成功している自分を妬んでいるのだと。普通、朝ドラのヒロインはここまで頑固ではない。視聴者の立場から言えば濱田マリの言い分の方がもっともであり、ヒロインはその鋭い指摘を胸に受けて自分の考え無さを反省し、一回り成長していくのであろうと、普通はこんな展開になるはずなのに、糸子は一切、自分を反省しない。僕はここで手を打って喜んだ。そうだ、糸子はこういう女だと。
 
普通、朝ドラのヒロインは万人に好かれるけなげないい子ちゃんとして描かれるか、けなげに頑張っていい子ちゃんになっていく物語がほとんどである。糸子は僕はドラマのヒロインとしては好きだけど、決して付き合いたいと思う女ではない。強烈な目的遂行意識と負けず嫌い、我欲の塊が服を着て歩いているような女で、前半よく描かれていた親父との確執を見ていれば、なんだかんだでこの娘が一番親父に似ていたのだとわかる。
 
だからこれも朝ドラでよく見かける生ぬるいラブ・ストーリー要素が、この作品では一切描かれていない。ヒロインはよくわからないままに結婚し、子どもはぼかすか生んでるものの、夫との交情はほとんどノータッチなのだ。この気持ちよさ、てゆーか、そんな要素をまったくストーリーから排除し、ヒロインのキャラだけでここまで引っ張ってくる力業を、僕はこの脚本で毎日楽しんでいる。当然、そんな女が簡単に反省なんかするわけないのだ。
 
もちろん、物語が進むにつれてヒロインのキャラはさらに深められるだろうと思う。このヒロインが本当は何を望み、どんな風に人間として成長し、最後にどんな幸せを掴むのか。ただしそれを見せるために中途半端な納得はさせねえぞという心意気が、この脚本にはある。脚本の醍醐味って、不完全な人間を徹底的に描くことだ。そうすればいずれより大きな感動を与える展開が見えてくる。けっこうこれはね、僕の物語作法を練っていく上でもいろいろ勉強になることが多い。
 
このドラマはこれから後半に入るのだろうが、いったいこれからどんな運命がヒロインを待ち構えているのか、もう毎日が楽しみで仕方がない。

« なんだか地味な「感染」 | トップページ | 迷宮の中を行く快感 »

映画・テレビ」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ