ギオン嫌い
僕の育った村には祇園という字があって、……なんて書き出そうとしてちと思い出したからいきなり横道に逸れるけど、
最近の若い人にはこの「字」という字を、「字」としか読めない人がいるそうだが本当だろうか。ちなみに最初の「」内は「あざ」と読み、次の「」内は「じ」と読むのは、字育ちの人には自明の理のはず。
僕の生まれ育った町を住所で言えば、一番最後の部分、つまり最小の行政単位は大字だった。若い頃、たとえば大学で東京辺りに住んでた頃など、大字出身というのは仲間内のネタの一つになりそうな話題ではあったし、それはとりもなおさず「ど」のつく田舎出身であることを表わしていて、自分でも確かに字って田舎くさいと思った時期もある。
ところが何年か前の全国的な合併推進の流れのために、僕の生まれ育った町の名前はきれいさっぱり消えてしまった。字名は残ったが、それまで何かの申請とかで僕の本籍である実家住所を書くときに「大字なになに」と書いてたところが、いまは「なになに町」と書くことになっている。この「なになに町」と書く段になると僕はなぜか毎回、必ずぷっと吹き出してしまうのだ。「なになに町」ってえ柄じゃないよな、と、僕は田んぼに囲まれた茫漠たる景色を思い出し、つい苦笑してしまう癖がすっかり身についた。確かに「字」(あざ)という文字の読みは、すでに消え去る運命にあるのかもしれない。
「自明の理」でついでに思い出したが、僕はずいぶんと長いこと、てゆーかわりと最近まで、この「自明の理」を「じめいのことわり」と読んでいた。どうもテーマを決めずに書き始めると、話がぽんぽんとあちこちに飛んで申し訳ないが、他にも最近次々と、自分が長らくこうだと思い込んで読んでいた読み方が、実は違う読み方だったということに気づいて愕然とすることが多い。
これはここ数年、せいぜい4~5年くらい前から頻繁に起きる現象で、種を明かせばパソコンだけで原稿を書いている僕が、標準の日本語IME(入力装置)として使い続けているATOKに広辞苑とか明解さんなどの辞書を組み込んでから顕著になった話である。
たとえば「自明の理」を「じめいのことわり」と入力して変換すると「自明の断わり」なんて表示されるから、わざわざ「断わり」部分を切り直して「理」に変換後確定し、日本語入力装置としては一番出来のいい(と僕が思い込んでる)はずのATOKがなんでこんな変換しかできないんだ、これじゃマイクロソフト製と変わらん(と僕が思い込んでる)じゃないかなどとぷんぷんしていたのに、実は「じめいのり」と入力すれば一発で「自明の理」と変換してくれた。要するに僕が読みを間違っていただけの話だったと。
しかも変換中に辞書呼び出しキーを押せば、ぱっと広辞苑が「自明の理」の意味を説明してくれる。間違った読みでは広辞苑は立ち上がらないため、ここで自分は完全に間違っていたことに気づかされる。この辞書呼び出し機能がついてから僕は、いままでよく使うイディオムでもATOKが一発で変換してくれないものに関しては、まず僕の読みの方を疑ってかかることにした。それまで僕は少なくとも漢字に関してだけなら、Qさまの宇治原より上だろうと自分で思っていたのだが、もう無駄な抵抗はよした。
この、日本語を入力中に適切な読みかどうかの判別がつき、おまけに広辞苑で意味まで調べられるとなると、まさに僕らのような商売には夢のような環境だ。手書き時代、僕は十分他人を殺傷する能力も備えていそうな分厚さの広辞苑を手元に置き、ちょっと自分で使い方の怪しい単語や、読みはわかっても漢字がわからない単語など、その場で辞書引きして仕事を進めていた。
だが、こういう作業ははっきり言ってめんどくさいし、せっかくの仕事の流れをぶつぶつ中断することにもなる。さらに、あの頃は若かったからさほど気にならなかったものの、いま広辞苑を読もうとすればルーペでもなきゃ無理だ。そういう意味でもほんとにね、パソコンて凄い発明でしたよ。この便利さをいったん知ってしまうと、もう後には戻れない。
ただ、広辞苑が「正しい」日本語のみを表示・解説してくれる指針としての役割には、重々感謝もするのだが、このアナログ時代に比べての圧倒的な使いやすさは結果的に、いつも辞書に頼って正しい字を使うことにつながる。物書きの端くれとしては、時々それってどうなんだろうと思うこともある。
僕は普段、公文書や改まった手紙を書いてるわけではない。日常的に書いてるのは、仕事用の原稿か、こんな気分転換がらみのええかげんな文章だ。職業として文章を書くのはほんとにね、頭痛はする肩は凝る、さらには時々吐きそうになるほどしんどいこともあるけれど、それでも辞めたくないと思ってるのは要するにこの仕事が好きだから、文章を書くのが根本的に楽しいと思ってるからに他ならない。だから仕事で吐きそうになるほど文章書いて、仕事で溜まった鬱憤を晴らすために、またこんなところで文章書いたりしてる。前夜飲み過ぎて吐きそうな気分を、翌朝からまた酒飲んでまぎらしてるようなもんだな。
その文章が他人の目の鑑賞に堪えるかどうかなんてのはこの際関係ない。もちろん本音では、他人の目にさらされる文章ならいかなる文でも受けたいとは思うけれど、もっと大事なのは、ただ楽しいから書くということだ。ところがここに、文章は、必ず正しい文字しか使って書かなくてはならないという決まり事がもしあったとしたなら、文章を書くという行為はずいぶん窮屈なものになってしまいそうだ。
僕は漢字の用法や意味を知らないで間違うのは恥ずかしいことだと自分では思っているが、こんな使い方しないということは承知で、あえて書きたいという欲求、あるいはこう使った方がいまの気分の表現にはすごく合ってる、という事態は始終ある。それを辞書に載ってないからという理由で使わない、あるいは使えないということになってしまえば、文章を書くことにこんなに魅力を感じたりはしないかもしれない。
だからもちろん「あえて」こう書くという部分はいまでも残してるし、自分の勝手な造語を何の説明もなく使ったりすることもよくある。ただ問題はいま現在、「あえて」間違った、てゆーか「ずれた」漢字変換や言葉の誤用をするより、正しい文字を入力することの方が楽であり、簡単だという事実である。だから最近の僕の文章は以前に比べればずいぶんと、ひねった言い方や皮肉な表現が少なくなっているはずなのだ。だって、ついついめんどくさくて正しい文字のまま書き放してしまってるし。
でもさ、これは最近あまり面白いことを書けない自分自身への言い訳として言うのだが、単に楽だからって理由で選ばれた正しさなんて、あんまり値打ちがないと思うぞ。そういや直子も言うてたやろ。「楽やない方が、おもろい」
……って、ここまで引っ張ってオチはまた『カーネーション』かよっ!
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コメント
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折角ですからこちらにも一筆
昔からあまりテレビを見る習慣がなかったので、漢字を「読んでいる」場面に行きあたらず、印刷された文字列のみで覚えていると、後で読みが間違えていることに気付くことは多々ありますよね
僕にとって空手の達人はずっと「おおやまばいたつ」だったし、小説家の大先生は「だいふつ痔ろう」だったりしました。年齢を重ねて初めて気付き、赤面するようなこともあります。(ちなみに「じろう」の最初の変換に意表を突かれたのでそのままにしてみました)
そう考えると「未曾有」を読めなくて、余りにも目くじら立てすぎるのも何だとは思いますが…
投稿: はらぐち | 2012年2月 9日 (木) 18時16分
>はらぐちくん
なるほど~。確かに「おおやまばいたつ」は東大の試験問題に出てこないよな~()
互いにコミュニケーションがとれる範囲でならそれぞれの読み違い思い違いはそれほど目くじら立てる筋合いのものではないよね。僕もその手で赤面することはよくあるけど、かえってそれがコミュニケーションのネタになったりして。そういやナイツの漫才なんかそれで成り立ってるようなもんだし……あ、知らんか、ナイツ
ちなみに僕も「未曾有」の読みを間違えたといって他人を責める人間は下品でヤだと思ってたけど、自分で読めない原稿を自分の言葉として読み上げんなよとも、僕はあの頃思ってました()
投稿: ujikun | 2012年2月 9日 (木) 19時41分