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ええ人生やったね。

今朝、とうとう『カーネーション』が最終回を迎えた。まあ、糸子は昨日の段階で死んでしまったので、それほど感動を盛ったり必要以上に泣かせにかかるエンディングを作る気はないんだろうなと思っていたら、案の定にあざといことは一切せず、淡々と終えた。とことん矜持のある脚本だった。

 

出演者を先に見せないためにオープニングは最後に持ってくるだろう、それと第1話冒頭の二人の糸子の歌もまたやるんじゃないかと思っていたら、その予想は当たった。いままでさんざ、そうくるかあと外されてばかりいたが、最後の最後にこの脚本は、ちゃんと最終回の王道スタイルに寄せて物語を終えた。

 

どこかの感想掲示板にもよくあった意見だが、泣かせ場面のピークとしては、確かにオノマチ糸子の最後の出演回が絶頂だったろう。ただ、あれを最終回にすればよかったという意見には僕は与しない。夏木糸子になってからは、確かに関西ネイティブの僕らの耳には、夏木さんのセリフのイントネーションが少々苦しかったのは事実だ。

 

でも、そこを言い過ぎると、じゃああのドラマはオノマチの威勢のいい岸和田弁だけが魅力のドラマだったのかという話にもなりかねない。もちろんそんなバカな話ではないことくらい、あのドラマのファンを自称する人なら8割くらいはわかってるはず。

 

あのドラマは何と、ネット上にオノマチウヨともいうべき人々を突如としてわき出させたという意味でも希有な作品だったと思うけど、そんな人々の中にはオノマチの素晴らしさを言挙げしたいが余り、夏木糸子編になってからのドラマを否定することに躍起となっていた人もいる。言葉の問題はそのための最も手っ取り早い攻撃道具だった。だがそれは結果的に、オノマチというスターを産み出したあのドラマの価値自体を貶めかねない行為だってことに自分で気づいていないところが、まさしく現実のウヨの思考様態の痛さと相似形をなしていて興味深い。

 

もちろん僕は尾野さんのデビュー作からの(甚だ不完全な)追っかけを自認しているから、彼女が朝ドラのヒロインをやればある程度評判を取ることは予想していたものの、まさかここまでの熱烈な支持のされ方をするとは思ってもいなかったし、僕自身、いままで見てきた尾野さんの芝居で、これほど感情を縦横に揺り動かされたこともなかった。

 

これはもちろん、脚本と演出のキレの凄まじさが見事に融合した結果で、一介のテレビドラマでこんなものを見せられた記憶なんて、さすがに僕の長いテレビウォッチ人生でもそう何本もある話ではない。てゆーか21世紀以降、日本のドラマでそんなもの見ることなんかもう二度とないだろうって、半ば諦めていた。いやあ長生きはするもんです。なんまいだなんまいだ。

 

惜しむらくは、あれが現時点で尾野真千子の代表作にはなっても、夏木さんの代表作にはならなかったことだ。ま、本人がそう言えば別に問題はないが、そこらへんで道を歩いてる人をつかまえて「夏木マリと言えば」と聞けば、たぶんほとんど湯ばぁばか絹の靴下になるんじゃないか。尾野糸子が実に小気味のいいセリフを吐いてドラマを引っ張ってきた後を受けただけに、言葉の問題が恐らく製作側の予想以上に視聴者の戸惑いと反感を招いたのは事実だろう。

 

でもなあ、これを比較のネタにしていいのかどうかわからんが、僕は一昔前の岩下志麻のドスの効いた関西弁に比べれば、夏木さんの関西弁の方が遙かに耳あたりはいいと思っているぞ。あの頃は映画スポットなどでやたらテレビからも岩下さんの「おうじょおしーや」とか聞こえてきたが、僕はあれを聞くたび、体中にさぶいぼが出そうな思いをしたものだ。ま、結局あの人はシリーズ通して「岩下弁」で押し切っちゃったから、それはそれで何かパラレル感が狙いだったのかもしれない。当時の僕もあの作品は、タイトルに極道という単語を入れただけのファンタジー映画だと思ってたし。

 

夏木さんはクローザーとしては実に見事な仕事をした。そしてあのドラマは、あの晩年が描かれるために、戦前からの長い物語が必要だった。本当にそう思う。小原糸子の物語は、糸子が生ききったことを描かなければ完結しないからだ。夏木糸子になってから話自体がつまらなくなったという感想掲示板の発言もあった。夏木糸子が生きている時代が、もう現代であったことを考えれば当然。あれは話がつまらなくなったのではなく、尾野糸子が一つ一つぶち当たっていた大状況が消失してしまった、現代がつまらないのである

 

夏木糸子が登場した最初の回に、彼女が現代の岸和田(一応、物語上はバブル全盛期に設定されているが)の町を歩く場面がある。照明にまで細心の注意を払い、プログレッシブで撮っていたかつての小原洋装店の前の通りのセットではなく、もうもろに生の現在の岸和田の町である。岸和田の町がどうこうという話ではない。どこにでもあるこの国の現在の町並が、これほど冷たく寒々しく感じるものなのかということを、僕らはそれまでの小原洋装店界隈の風景を見慣れた目にいきなり見せつけられる。

 

夏木糸子編はすべて、この空気の色が白色蛍光灯で照らされたような色になっている。時に主人公の心情を叙情たっぷりに映し出した夕日の色は、たとえば病院の磨りガラス越しのような白濁色に変わっている。僕らがいま生きている現代に、あの暖かみを帯びた夕日の色はもうないからだ。

 

善作や千代が生きていた頃、木之元のおっちゃんや保岡のおばちゃんたちがいつも近所にいて過ごした濃密な時間は、だからすべて思い返すといまよりはやや薄暗く、けれどほんのり暖かい光景として蘇ってくる。これはまるで、生きてきた時間よりは明らかに残り時間の方が少なくなったことを意識するようになった世代が感じる、昔の記憶そのものじゃないか。

 

そしてこれが一番大事なことだが、糸子は決して過去の思い出に逃げ込んだりしない。いまやらねばならないことをやり、明日はさらに新しいことが出来ないか考えている。何も日本の歴史を変えるような大きな仕事をする必要などない。人はそれぞれの身の丈にあった人生を送る中で、日常の細々とした事件に真摯に立ち向かうのだ。このドラマはそこをちゃんと見なければ、岸和田弁がおかしいだの年取りすぎだの年若すぎだのなんてことが気になってしまうだろう。

 

僕らは夏木糸子編になってから、オノマチウヨあたりを納得させるために回想場面なども増やすのかと思っていたが、はっきり言ってそんな場面はほとんどなかった。年代の飛ばし方もそうだけど、あれは製作側の、誰も決して過去には戻れないんだぞという何かきっぱりとした意思表明にも思える。だとするなら、本当に凄いとしか言いようがない。あのドラマは誰にも媚びを売らず、堂々と自分たちが見せたいドラマを見せて幕を閉じた

 

糸ちゃん、ほんま長いこと、お疲れさんやったね。

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