誰かと暮らす効用
年をとってくると光陰矢の如しのたとえのとおり、
ついこの間まで再来年はオリンピックだ、来年はオリンピックだなどと言っていたそのオリンピックがもう始まっているという、このあっという間感は、もしかすると50は過ぎないとわからない
僕は40代の頃から、今日見たクイズQ様とかVs.嵐とかを3日前くらいに見たばかりだと言いはり、妻にそんなことはない、あなたが見たのはちゃんと一週間前でしたとさとされると、何ということだ、一週間が3日で過ぎるようになってしまったなどと言って慨嘆していたものだが、オリンピックやワールドカップが、なんか毎年やってるような感覚になってしまったら、もう人生の終わりも近いんだろうな、きっと。
でも、よく考えてみたらオレ、オリンピックってほとんど興味ないから、前回がどこでやってたかというのも実はもう記憶があまりないのだ。もしかしたら北京で正解かもしれないが、こんなとこで書く文章などのためにいちいち調べるのは面倒なので、例によって間違っていたら間違ってやがるとだけ思っていてほしい。
そもそも、いま日本人の全体どれくらいの割合の人が、その日常生活の中において何%程度の関心を持ってオリンピックというものを見ているのか、その見当がいまの僕にはさっぱりわからない。同じことは、まあワールドカップであるとか、世界陸上とかあの手のものにも共通して感じる感覚だけれど。そんなことよりいまの僕には気にしなきゃならないことがまわりにあり過ぎてね。
そんなこと言いながら昨夜は明け方から開幕式の一部始終を見てしまった。彼女の人生においてさほど大して運動やスポーツと名のつくものと関わりを持った経験などないくせに、こういうものにはミーハーとしての特性を遺憾なく発揮する妻が、朝の4時から目覚し時計をかけていたためだ。
隣の部屋で寝ている僕は、いっこうに鳴り止まない目覚ましの音に切れて、彼女の部屋までこんな朝早くからいったい何のつもりだと確かめに行ったら、オリンピックの開会式を見るのだというお答え。今回のオリンピックがこの日から始まるのだと、僕が気づいたきっかけはこれである。そういえば昔、一人暮しをしていた頃は、知らない間にオリンピックが始まって終わっていたこともあった。まあ、たとえば高校野球なんかいまでもそうだが()
世間からさほど取り残されない程度には、世間の話題についていける暮らしが出来るのも、誰かと一緒に暮らす効用の一つだろうさ。
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