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雷音

昨夜の雷は迫力だった。夜中から深夜にかけての話。
 
迫力の雷というと、間髪入れずにビカビカと、それも比較的近場で光り続けて、まるで空襲のような騒ぎかとも思える状態を連想しがちだが、昨夜の雷は数としてはそれほど多くなかった。むしろほとんど光らなかったといってもいい。
 
そのかわり忘れた頃に一回、ビカッと空全体を光らせると、その後の雷鳴が凄まじいのだ。ドドドドドと、まるで地の底から響く地鳴りのように伝わってきて、実際に建物や窓をきしませる。僕は何度か、これは地震も一緒に来てるんじゃないかと思ったりした。来週は東京に行かねばならないというのに、なんかヤだなあ()と
 
ボクシングで言えば手数は多くないが、決めるときは重量級のパンチ1発で決める、みたいな奴か。僕は地鳴りのような雷鳴が轟くたびにパソコンの手を止めて、窓から外を眺めたりしてみたのだが、肝心の稲光はほとんど見えず、もう仕方がないので寝ることにした。作業はデスクトップの方でしていたから、いきなり停電でもされたらたまらんし。
 
そんなわけで昨日はほとんど仕事進まず。もっとも夜になって仕事をやるつもりだったのに進まなかったのは、なにげなくつけたテレビで『千と千尋の神隠し』をやっていて、久々だなあと冒頭部分を見ていたら、つい最後まで見てしまったという自爆原因がある。しかも、何ということだろう。僕は昨夜『千千』を見ながら、ちょっと感動までしてしまった。
 
実を言うと僕は、ホルス以来の宮崎ファンを自任はしているが、『千千』あたりから、正確にはもう少し前から、いわゆるジブリブランドにあまり期待しなくなっている。一応話題作だと見には行くんだけど、昔のように、心から楽しみかつ幸せな気分になって、大満足で劇場を後に出来る映画が少なくなった気がしてね。
 
『千千』も、見には行ったけれど、首をひねりながら帰ってきた作品。あの頃の僕はまだ、ノリと勢いを宮崎アニメに求めていたんだろう。はっきり言ってそんなに面白いとは思えなかった。
 

困ったことに、そしてこれはジブリの作品は基本的にそうなんだけれど、つまらないとも思えなかった。特に『千千』は画面のどこを見てもセンス・オブ・ワンダーに溢れ、アニメでオリジナルにこだわるというのはこういうことかと、まるで横綱の相撲を見せつけるようなできばえ。どこが面白いのかよくわからないくせに、つまらないと切り捨てる度胸もない。なんだか宙ぶらりんな気持ちになって帰ってきたことを覚えている。
 
でも昨夜、冒頭部分を見ていて突然僕は、ああ、なるほどおっ、そーゆーことだったかと悟ってしまった。この映画って要するに、親の強欲のツケを払わされることになった子どもの物語であったのだなと。
 
もちろん宮崎監督本人が本当はどんな狙いでこの話を作ったかは知らない。これはあくまで僕個人の悟り(解釈)の話だからね。ただ、僕は豚になった両親を見ていて、これは宮崎さんの大人観に違いないとピンときた。
 
簡単に言えば、大人は自らの欲望を貪欲に追求し続けることによって、取り返しのつかないツケを自らの子どもたちに負わせることになり、千こと千尋は、そのために様々な苦難をその身に引き受けることになってしまったというのが、この物語の骨子なのだろうと。
 
八百万の神々が集まる湯屋のあるあの町は、日本の魂の故郷としての「ハートランド」なのかもしれない。ただしそれは現実の日本からどこか遠くに離れてある場所ではなく、互いに見えないけれど、この現実と重ね合わさるように存在する世界のはずだ。だから、あの世界にリスクをもたらすものは、たとえば腐れ神の吐き出した瓦礫のクズのように、現実の人間社会に由来する。つまりあの神様もハクと同じく、どこかの川の神様だったのだろうね。
 
つまりこの二つの世界は本当はとても近い。あるいは八百万の神だって最近では滅多に気づかれることもないけれど、普段はちゃんと現実の日本側に存在していて、そこで受ける凄まじい日々のストレスをあの湯屋へ癒しに来ていると考えることも出来る。逆に最初はおとなしげで遠慮深く見えたものの、千との出会いをきっかけに、自らの空虚な内部を埋めるため、貪欲に喰らい続ける怪物となったカオナシは、人間世界側から迷い込んだ戦後の日本人を戯画化した姿に見えて仕方がない。
 
そんな風に思ってしまうと、僕は最初見たときにはまったく何の共感も湧かなかった千の試練が、大人たちが壊したものを取り戻そうとする戦い、あるいは原日本に坐します存在に対する償いのようにも見えて、初めてこの作品を心底から楽しめる気分になった次第。
 
10年も前の作品なのにいまさらこんな思いに浸れるとは、さすがに宮崎作品の奥の深さであるともきれいにまとめられるけれど、正直言えば僕自身は、あまり作品の背景や意味づけ、メタファーの類を読み解くことにはほとんど興味がない人間である。だから本当ならいまさら『千千』の話をとりあげて、こんな風に感心することもなかったのだ。作品なんて初めて喰ったときに一番おいしければいいと思っているからね。
 
そんな僕が、そうか、こういう解釈が出来るじゃないかと思ってしまった一番の要因は、つきつめれば去年の大震災に間違いない。正確には大震災以降、いまだに続いているごたごたさ、具体的にはあの福島原発事故。あれによって、初めて日本人の多くが真剣に考え込まざるを得なくなった問題、そういう問題を日常、頭の隅に置くようになった目で『千千』を見たとき、初めてあの物語に仕込まれた構図が浮かび上がって見えるようになったということだ。
 
でも、そういうことを気にしながら映画を見ることが、僕は必ずしも幸せな映画の見方だとは思わない。これは偏見で言うが、映画作品をやたらメタファーで解説したがる奴って、たいてい幾つかの不幸に見舞われたことのある猜疑心と嫉妬心が強い中年オタクと相場が決まっているものだ。

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