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黒沢映画の分岐点

なにしろ眠くて眠くて。
 
晩飯食いながらWOWOWでいまやってる黒沢特集の1本として録っておいた『蜘蛛巣城』を見る。
 
黒沢作品の中ではどちらかといえば小品の部類に入りそうなこの作品が、僕は昔から好きだった。たぶんそれはクライマックスの三船さんめがけて無数の弓矢が射かけられる、あの迫力に目を奪われたときからのことだろう。
 
あれは一応、体に刺さる奴はピアノ線張ってたらしいけど、あの三船さんの左右に打ち込まれる矢は、弓の名人に実際に武者の格好させて至近距離から放たれたものだとか、あのシーンに関してはいろいろ伝説もあって、今回もまた恐怖の叫びを上げる三船さんのアップを見ながら、果たしてこれは演技かマジか、想像しては楽しむのである。
 
久々に見たけど山田五十鈴が恐すぎる。まあ、マクベス夫人は誰がやってもたいてい恐くはなるのだけれど、うまくて顔の恐い人がやれば、ほぼ最強のマクベス夫人になる。僕は高校2年か3年の時、滋賀県に公演に来た劇団『雲』の「マクベス」を何を思ったかいきなり友人と二人で大津の県民ホールみたいなとこまで見に行って、その時にマクベス夫人を演じた岸田今日子の芝居が、いまだに脳裏に焼き付いて離れない。えーとそれはね、芝居の感動とかいうものとはちょっと違う。……どちらかといえば、トラウマに近い()
 
『蜘蛛巣城』の山田五十鈴は、ほとんど表情を変えず、声の調子も抑えている。なのに部下に慕われ、友情にも厚い豪傑武将だったはずの三船敏郎を、結果的に滅びへと導いていく経過は、若い頃に見たときはあまり感じなかったが、いま見るとぞっとするほど恐い。
 
そういや数日前はWOWOWの黒沢特集、夜に『影武者』をやってた。
 

僕は娯楽としての映画はとにかく、血湧き肉躍る冒険活劇がこの年になっても一番好きなパターンなので、黒沢作品なら当然好きなタイトルは「七人の侍」や「椿三十郎」「用心棒」みたいなのが常に上位に来るのだが、なんだかんだで黒沢映画の画面は人を引き込む力強さに溢れていて、その物語の内容にまったく興味が湧かず、あるいは物語そのものは退屈でも、テレビでやってると何かの拍子にチャンネルを合わせてしまい、そのままいつの間にか最後まで見てしまうという、ある意味、宮崎アニメと共通の要素を持っている。
 
あの人の作る画面から放たれる魔力のような魅力、それ自体は晩年になってもほとんど劣化しなかった。『影武者』だって最初に劇場で見たときは、さすがに黒沢も老いたなどと生意気に吐き捨てたりしていた僕だが、それほど面白いとも思わなかったこの作品を何度見ても飽きないのは、やっぱりあの画面の力なんだと思う。僕の中では『乱』も似たような位置づけだ。

 

そもそも仲代さんの芝居は大仰で、上背があるから見栄えはするかもしれないが、何をやっても舞台劇に見えてしまう。あの人が年を経て、ようやっと板についた「かろみ」を見られたと感心したのは『清佐衛門残日録』くらいだ。だから初めて劇場へ『影武者』を見に行ったときは、あの場面、この芝居を勝新がやってたらと、いちいち頭の中で脳内変換をしながら見てしまったりしていた。はっきり言ってあの脚本は、勝新にあて書きしたんじゃないかと思えるような箇所が幾つかある。もちろん世界の黒沢がそんなことするはずもないのだが、だからこそあの主役降板劇はあまりにもったいないことだったなあといまでも思うのだ。

 

で、また性懲りもなく『影武者』を見るともなしに見ていて、ああそうかと、一つ腑に落ちたことがあった。それはラストというかクライマックスというか、ついに武田家が滅ぶきっかけとなる長篠の合戦場面。

 

あそこは、最初僕が劇場で観たときも、そのクライマックスにこそ黒沢映画の本領発揮たる凄まじい迫力に溢れた大合戦シーンが展開されるのだろうと期待していて肩すかしを食らった覚えがある。黒沢老いたな、なんて言ってたのは、昔の黒沢映画なら当然見せてもらえたはずの派手な戦闘場面が一つも見せてもらえなかったからだ。かわりにクライマックスは、兵の顔さえまったく見せず、ただ竹柵越しに次々と銃弾を放つ火縄銃の場面と、動揺する武田の本陣の光景が交互に描かれるだけである。そして、ようやく銃声がやんだ後、映し出されるのはただ馬と足軽兵の死屍累累たる光景だけなのだ。

 

この場面がまた、やたら長くてね。バックにもの悲しいメロディが流れる中、カメラは血にまみれて倒れた兵士たちと馬の姿を延々と見せる。みんなきれいに死んでるわけじゃなく、馬も兵士もまだ息があるのか、血塗れの姿で気息奄々な様子をカメラはこれでもかと見せ続ける。その光景に何やら憤怒を押さえきれなくなった主人公の影武者は、最後に一人特攻して、また顔の見えない銃口に射殺される……というオチなのだが、正直に言うと僕は最初、この場面は退屈だった。一番クライマックスの大事なところに、なんでこんなほとんど動きのない映像を何分も見せるのかと。復帰した黒沢にはもう往年の力はなかったのか、それとも戦闘場面を録るだけの金を用意できなかったのか、などと一人で憤激していたものだ。

 

先日見たときに、突然わかった(最近、多いね、このパターン)。あの武田軍の死屍累累は、太平洋戦争の折の日本軍の姿だ。それはサイパンやグアムの戦闘でアメリカ軍が録った記録映像を見た人ならすぐにぴんとくると思う。そして、役割を終えたとして武田家から追い出された影武者が、押さえ切れぬ感情からか隠れていた場所から飛び出し、死んだ足軽の槍一つ握って織田方に特攻をかけるとき、一瞬映し出された武田軍の本陣にはもう誰もいない。黒沢さんはあの映画で戦闘場面が撮れなかったのではなく、あえて撮らなかったのだ。だってあの映画は、そういうものを見せる映画ではもうなくなっていたから。あの映画で黒沢さんが見せたかったものは、すでに大迫力の戦闘シーンなどではなくなっていたから。

 

『乱』もそうだけど、あの映画以降の黒沢さんは明らかに、もう客に見せたいものは昔と変容していた。そのターニングポイントとなったのは、『影武者』のクライマックス場面だ。ということが、今回よくわかった。

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