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許されざる〆切遅れ(__;)

じゃなくてですな、久々に映画を観てきました。作品は『許されざる者』。

 

原作、というかオリジナルのイーストウッド版を観ているので、半ば恐いもの見たさ、あるいは期待と不安が半々みたいなところも。ただし観に行くと決めた以上は不安より期待の方が上回っている、つまり期待しないものをもとより観に行くわけないと思えば、この映画もかなり僕の中では偏差値が高かった。

 

結論から申し上げれば、よく出来ていた。うん、実によく出来ていた。

 

少なくとも僕の期待値以上のできばえであったことは間違いなく、ああ、さすがにうまいなあとは思わせてくれた(除渡辺謙の芝居)。僕は正直満足しました。以上!

 

以上で物足りない人は、もう少し僕も書き足りないことをこの後に書くけれど、完璧ネタバレになるので、この映画を観るつもりの人は読まない方がいいかも。

 

で、まずは「よく出来ていた」と評したが、僕が作り手側だったら、こんな高所からの物言いはちょっと引くだろな。作り手が言われて最も嬉しい感想は素直にたった一言。「おもしろかった」で十分なのである。

 

「よく出来ていた」というのは、イーストウッド版のオリジナル、しかもアカデミー賞を取ったような作品をリメイクするなんてよほどの覚悟と根性だなあと、まずその勇気に対する感心が先にあり、見終えて、よくぞあの作品をここまで日本の話にあてはめたものだと。多少力業なご愛敬もあるけど、作品世界自体を壊してはいない。そのことに対する「よく出来ていた」なので、決して皮肉で茶化しているわけではない。日本の漫画やアニメを実写でリメイクした作品なんか、ほとんどオリジナルを冒涜するのが目的でやってるのかとしか思えないような作品がほとんどだからね。

 

じゃあなぜ素直に「おもしろい」と言えないのかという点について言えば、それはこのオリジナルの『許されざる者』が、単純に「おもしろい」と言えるような作品ではないからだ。この感覚は観た人にしかわかるまい。

 

いま念のために確かめてみたら公開はなんと1992年。あれを観てからもう20年も経っていることに驚く。僕はせいぜい10年くらいかと思ってた。そう思わせるほど、そんな昔に観た気がしない。ストーリーの細かい部分はほとんど忘れてるけど、ところどころ鮮烈なインパクトをもって脳裏に焼き付いた画面がいくつかあり、イーストウッド最後の西部劇としても、まことに印象深い映画だった。

 

だがこの映画、観終わったあとはかつてイーストウッドが主演した数多の無敵ガンマンもののような痛快さも爽快さもなく、ただただ胸にのしかかる重さと苦さを感じたものだ。今回のリメイクにも、その感触は色濃く残っている。ある意味、オリジナル以上に!?

 

正直に告白すれば、僕はこのオリジナル『許されざる者』(原題:unforbidden……だっけ?)を最初に観終えたときは、いまいちテーマがよくわからなかった。もちろん最初はそこそこ「単純に」おもしろいと思って観終えたし、テーマなんかもともと深く考えるたちの人間でもないんだけど、この映画はその後、何かの拍子に記憶が蘇ってきて、たとえばふと、はて? で、結局「許されざる者」とは誰のことだったんだ? とか、そんなことが気になり始めたのだ。

 

もちろん普通に考えれば敵役のハックマンだけではなく、主人公であるイーストウッド自身、あるいはその仲間たちもそうなるのか、という構図は気づく。けれど、何だか素直にそれがこちらの体に入ってこないのである。これには多分に僕が英語ネイティブではないという事情もあるだろう。いま言ったような構図さえ、僕は2回3回と見返しているうちに、だんだんとまあ、そういうことだろうと思うようになっただけでね。

 

李監督版『許されざる者』に感心するのは、まさしくそのテーマだけを前面に押し出して、ほぼ一点突破を計っている点だ。この映画、登場する人物すべてが罪人(つみびと)である。それもただの罪人ではない。「許されざる者」とは神に呪われた人間のことだ。この物語の登場人物は全員、その資格を持っている。

 

たとえばオリジナルでは、あくまで「結果的に」主人公は友人の復讐を果たし、虐げられていた娼婦たちを救い、町を理不尽な暴力から解放した……、ような終わり方にも見える。つまり一見すればハッピーエンドのように見えなくもない。だが李版ではこの娼婦たちもまさしく許されざる者なのだ。それはこの映画における暴力場面の扱い方、人と人が殺し合うとはどういうことかという、その描写からも、この世界の登場人物がそれぞれ互いにどれほど他人を傷つけながら生きているか、それをぶちまけようという心意気が伝わってくる。

 

オリジナル版より、その暴力描写がひりひりするのは、やはり拳銃による殺人と刃による殺し合いは違うというイメージのおかげだろう。相手の急所さえ狙えば一瞬で片のつく銃器殺人と違い、刃は己の力で相手の急所を確実に貫くか切るかせねばならず、この仮定で殺す側も決して無傷ではあり得ない。いま思ったけど、アメリカには「返り血を浴びる」なんて言葉、ないんだろうなあ。あるいは自らの「手を汚す」なんて表現も。だから平気で戦争できるのだろうか。とまでは、言い過ぎかもしらんが。

 

オリジナルを観たとき、主人公は一応生き延びて無事置き去りにした子供たちの元に戻ったわけで、それは観ていて一抹の安心感を得られる後味にはなっていたものの、でもそこに多少の割り切れなさを感じたのも事実だ。あくまで僕はね。ところが李版では、ラストは多少異なる展開になっている。そして僕は、テーマ的に言うならこちらの方が本当だろうとも思う。主人公が亡き妻との不殺の誓いを破った代償は、それほどに大きいのだと。日本人としては、こちらの方が終わり方としては腑に落ちる。

 

ただそうやって、オリジナルのテーマを濃縮して再提示されると、そうそう、イーストウッドは結局こういうことが言いたかったんだよね~と同意してしまう反面、ちょっとわかりやす過ぎないか? という気分もどこかに同時に盛り上がってきてしまう。まったくめんどくさい野郎だな>俺

 

わかりやすいとは、言い方を変えれば「ベタ」である。僕は「なみだ坂」でも時々意識してベタをやることがあるから、ベタそのものが悪いとかは一切思ってない。ただ時と場合によっては、ダサい、見苦しい、頼むからやめてくれ恥ずかしい、とか思う程度のことでね。

 

李版『許されざる者』はオリジナル版に比べて、明らかにベタである。このベタが許せるかどうか。僕は許すけど、オリジナル版にあった、ちょっと僕のような非才には言葉に表わしがたいあの渋みが、李版にはほとんどない。このことは意識しておくべきかと思う。だから、似たような風景を、つまりどちらも穏やかできれいな夕焼けだの草原だの大自然の風景を随所に挿入してくるけど、その深みが全然違うのだ。

 

イーストウッドのオリジナルは、一見ハッピーエンドにも思えそうなラストだけど、実はよく考えるとあの国の正体そのものにも迫りうる深さと余韻を残した作品になっている。李版は、一見この国の正体に迫ろうとする素振りも見せるけれど、最終的には個人の運命にテーマが帰趨している。そんな印象を受ける作品であった。

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