« やっぱ、格が違うわ | トップページ | FBのゆーうつ »

うん。やっぱまた外れかな

久々に書き込むけど、なにしろ仕事が進んでないもので、次はまたいつ書けることやらわかりませんが

 

前置きはさておき、とりあえず一言言いたくなったのは、新ドラシーズンも始まり、真っ先にテレビで始まったNHK、朝のテレビ小説。とにかくあのくそうっとおしかった『花子とアン』が終わり、ようやく新たな番組が始まるので、期待に震えながら見てみたら・・・という話である。

 

ま、はっきり言って朝の連ドラなんて僕にはおよそまる30年くらい何の関わりもなかった。どれだけ世間で連ドラヒロインがどうのこうのと言われたところで、それに関わるNHK自体ほとんど見てないのだから仕方がない。なのに、ここ数年の朝ドラを、とりあえず新番組が始まるたびに気にするようになってしまったのは、何度も言うが『カーネーション』にあたってしまったためだ。この意味で僕に対する『カーネーション』の罪は重い。

 

つまり、あのドラマがそれまでの僕の朝ドラに対する先入観と偏見をものの見事にひっくり返し、朝ドラだって見逃したら一生後悔するかもしれないドラマというものを放送することもあるのだと思わせてしまったため、とりあえず毎回新しい朝ドラが始まるたび、気になるようになってしまったのだ。おかげでそれからしばらく、最大1週間くらいゲロ吐きそうな朝ドラに付き合ったりして貴重な時間を潰してしまうことになる。

 

で、『カネ』のあと何作か見て、基本的には僕の先入観と偏見通りだったことを確認し、よし、もう朝ドラなど見ることもないやと悟って離れてしまったら、そこで『あまちゃん』が始まってしまった。タイミングを外したおかげで僕は『あまちゃん』が海女を始めるまでのいきさつは知らないし、あれが終わったあとしっかり「あまロス」気分も味わってしまい、それからまたしばらく朝ドラの新番組が始まればとりあえず最初は見る、という行動にまた戻ってしまった。この意味で僕に対する『あまちゃん』の罪も重いな

 

ま、中には『ごちそうさん』のように、僕は3日くらいで音をあげて、こんなクソガキ、何の感情移入もできない、タイゾーなんて声のでかさと背の高さしか取り柄のないお笑い芸人がメインキャラで出ているのも違和感ありまくりとかいろいろ叫んで見るのをやめたのだが、何を気に入ったか妻がその後もずっと一人で見てて、しかもヒロインが結婚して舞台が大阪になったあたりから周りに芸達者がそろい、案外見応えのあるドラマになってきたためについ視聴を再開したような例外もある。

 

あの作品の戦時中の庶民生活の描写は、多分に『カーネーション』への対抗意識も感じさせたが、なかなか秀逸だった。

 

で、『花子とアン』は、実は僕、相当に期待していた。だって大学の頃からの『赤毛のアン』のファンですもの。ちなみに日本に存在するアンファンの中には、赤毛のアンをアニメでしか知らないファン、もしくはアニメでアンを知って原作も読んでみたけど、やっぱりアニメのアンの方が好き! というファンもかなりのパーセンテージで存在するんじゃないかと思う。僕はこの後者の例だな。

 

だから当然そこそこの期待と思い入れも生まれようというものだが、はっきり言って1話からいきなりガッチョーンだった。美しいアボンリーの景色の中で展開された物語が、山形のど貧乏な小汚い水呑百姓の家を舞台に(別に山形をどうこうではなく、ドラマの中でそのように表現されていたからではあるが)置き換えたパロディーとして話が始まっている。ご丁寧に主人公の通う小学校は阿母里小学校で、どう考えてもそれ、あぼりーと読ませようとしてるだろ()

 

あるいは有名な石版頭割りシーン、相手はギルバートならぬ木場朝市なんて名前の同級生で、そこまでやるなら名前も中途半端につけずに儀留場藤平とか、もっと似せろよ。でもそしたら結婚相手は藤平以外ではありえなくなっちまうな。あと、キャラをこってりとつけるためだろうけど、いちいち「花ではなくて、花子と呼んでくりょ!」なんていうヒロインの台詞もうざいことこのうえない。もちろんあれは「アンはeをつけたアンよ」という、あれのもじりでしかないはずだが。

 

とにかくこのヒロインは後に『赤毛のアン』を翻訳する人ではないのか? だったら少女時代にこんなふざけたエピソードを満載にしてしまったら、『赤毛のアン』の原書を初めて読んだとき、この人は原書の内容に関係なく、単に自分の少女時代の思い出を書いただけということになってしまうじゃないか。あの小説は超訳だったのか? いや、そうでないというならヒロインは、原書を見て「て~っ! こんなとこにおらの人生を予言した本があっただよ!」と驚いてしまうに違いない。

 

ま、実際あの人の翻訳は実はいろいろ問題があるという話は昔からあって、だからこそアニメ版の『赤毛のアン』はあえて原書に正確と評判のある訳書の方に則ってドラマ化されたと言われている。でも、そんなことを考え出したら、そもそも朝ドラのヒロインとか題材としてご破算なことにもなりかねないし、昔の翻訳者がどれくらいいい加減だったかというのは、僕も大学時代、一時原書読みにハマった頃に、身にしみて感じている。

 

とにかく一事が万事こんな調子で、ドラマ脚本としてのつまらなさは置いておくとしても、あの少女時代のエピソードが基本的に赤毛のアンのパロディ的世界であるという設定は、いったい誰のためにやってるのかさっぱりわからない。もしかしたら脚本家だけが楽しんでたか? 少なくとも大学生の頃からアン・シャーリー命の俺は、あの展開を見て不快極まりない。

 

ヒロインが後に、大人になって『赤毛のアン』の原書と出会い、ああ、これは私の生まれ育った村と共通している世界だわと共感し、自分にとって運命の一冊だと思わせる展開自体はいい。でもそれは、遠く離れたカナダの田舎町と山形の美しい故郷の光景を重ね合わせ、そこに住む人々の暮らしや人情を思い出させるいくつかの鍵を仕掛けておいて、物語も後半になった辺りでヒロインがアンに出会うと同時に、視聴者にも、ああっ、そういえばここはカナダの人も日本人も、同じような美意識や人情、暮らしの喜びというものを持っているんだなあと、思い当たらせれば十分感動的な話になったろう。

 

試験を始める前に、第1話から答え合わせを見せるようなシナリオでどうするんだよ!

 

もちろん視聴者の中には喜ぶ人もいるかもしれない。わかりやすいからね。でもそれは、結果的にただのあざとい手口であり、人気を得るために有効な方法という面もあるかわりに、使いすぎると脚本が安くなる。

 

安い脚本ばかり演じていると役者はどんどん芝居が下手になるし、安い脚本のドラマで喜んでいると、客はどんどんバカになる。近年の日本人総白痴化現象みたいな雲行きは、多分に現今のテレビのせいもあるのではないかと、大宅壮一の言葉をいまさらながら噛みしめている。だってあのドラマで朝ドラ視聴率、またかなりいい数字を取ってたなんて話を聞くとね。

 

ま、そんなこんなで、ようやっと朝ドラも新番組が始まったし、主題歌は中島みゆきだ。もうこのあたりからびんびんとNHKのやる気が伝わってくるというか、『プロジェクトX』の夢よ、もう一度! 的な気合いも垣間見えるので、さあどんなものかと久々に第1話から見てみたが……

(→タイトルに戻る)

« やっぱ、格が違うわ | トップページ | FBのゆーうつ »

映画・テレビ」カテゴリの記事

コメント

中島みゆきは、「こんあ時間にわたしでいいんですか?」と
言ったとか。
私は「赤毛のアン」命、前者の方ですが、アニメも全巻
もってます。日本語訳の本は文庫本でも数種ありましたね。

ああ、やはりアニメだけでご存じでしたか。それは
でも、本当に意外ではないです。あのアニメの「世
界名作劇場」の中でも、『赤毛のアン』は図抜けて
文芸的でしたからね。

実際アニメの『アン』を見た後に原作小説を読むの
は、つくづく蛇足でした。正直、村岡さんの訳はあ
まりうまいと感じられなくて……

でも、あの頃はDVDはもちろん、ビデオもなかった
頃だから、小説を読んで脳裏にアニメの名シーン
が蘇る、という意味では小説も重宝したかも()

ありゃー、私、とんでもない間違いを。
文庫本でアン・シャーリーが結婚、子供が
できて住み慣れた家を出る、とこまで
文庫本で読んで感激、後にアニメです。

この記事へのコメントは終了しました。

« やっぱ、格が違うわ | トップページ | FBのゆーうつ »

2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ