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健さん死すの報に触れて

高倉健が亡くなった。

 

もうワイドショーなんか大騒ぎでね。トップニュースは健さんの死と、健さんがいかに「いい人」だったかを伝える各芸能関係者のエピソードで花盛り。ま、日本映画界における大スターだった、という位置づけには僕も異論はない。

 

ただ。正直言えば僕は、高倉健そのものに特に何か思い入れがある観客だったわけではない。健さん、とあの人の名を呼ぶときに口にしたこともあるけれど、それはみんなが西郷隆盛を西郷さんと呼ぶから、ついこの場では僕も西郷さんと呼んでおこう、くらいの感じでね。僕個人としては、健さん、なんて呼ぶのはどうにも面映ゆい。

 

といっていまさら高倉さん、と呼ぶのもかえってどうかというくらい、健さんはそれ自体が一つの呼称として定着してるようだし、高倉さん、と呼んでほかに思い浮かぶ映画俳優は高倉美貴くらいしかいないので、ま、彼女と勘違いされるのも何だかなというわけで、僕もここでは健さんと呼ばせていただくことにする。

 

ただ、好きな役者さんが亡くなったときなどには、僕がその人のファンになったきっかけとなる映画やドラマの話をするんだけれど、健さんに関してはいささか困ってしまう。だって僕、別に健さんのファンというわけじゃないし

 

でもね、なんで日本人は(と、ひとくくりにすると語弊があるけどとりあえず一般的な慣用句として)あんなにみんな、健さんのことが好きなのだろう。ということが、僕なんかには少々不思議である。もちろん嫌う理由も僕にはないが、たとえば亡くなった直後、つまりいまの健さんの評判は、あの中国でさえ弔意を表わしただの、ハリウッドにも衝撃走るだの、

 

それくらい世界的にも評価が高くてなんて話がもう言ったもん勝ちみたいにテレビにも溢れてて、それをコメンテーターなどと称する人たちを含めてその場にいる誰も止めない、てか、誰もそれはちょっと…てなことを言い出す人がいないのは、僕には少し異様な光景に思える。別に「健さん」をけなしたり過小評価したいなどという気持ちはまったくないけど、ただ、そんなに世界が評価するほどのスターだったかと言われたら、少なくとも僕にはそんな心当たりはまったくないからね。

 

たとえば日本が誇る、と、つい言いたくなってしまう気持ちは僕にもあるから、先日の東京映画祭だったか何かで常識ある人間には失笑ものの宣伝コピーとして有名になった、例の黒澤監督を示唆したと思しき文言を作った奴の気持ちはまったくわからんわけでもないが、ただ一般的な話として考えれば、自賛する奴ってたいていバカだろ?

 

なんだっけ? 日本には世界中から尊敬される映画監督がいましたとか何とか、あ、そこの「日本」はもしかしたら「ニッポン」という表記だったかな、きゃうんっ、ともかくそんな感じの文面だったと思うけど、それをよりによって世界中から映画人が集まるイベントの宣伝コピーにしたというのには、それを作った奴の神経を疑うのは当然として、むしろポスターになるまでいっぱい人の目に触れる機会があったはずながら、誰もそれを止めなかったというところに本当の恥ずかしさというか、恐ろしさがある。

 

実際、世界の映画人がそんなコピーを見たら鼻で笑うしかないし、世界中で尊敬されている監督はハリウッドはもちろん、中国にも印度にもロシアにもいるわけだから、何考えてんだという話だが、僕は仮にもビッグイベントの広告を任されたニッポンの連中がそこまでバカだとは思いたくない。多分あれは、あくまで日本人向けに考えたコピーであって、あれを外国人が見るとは想像してなかったんじゃないかな。……もっとバカじゃないか!()

 

ちなみに自信と自賛はまったく別のもので、僕はセックス以外ならたいていのことに自信はあるものの、他人の前で己を自賛した覚えはあまりない。酔うと時々やらかしてるかもしらんが。たまにやるとすれば妻の前くらいでしかなく、だから妻は堂々と僕をバカにするのである。自賛というのは基本的に誰も誉めてくれないからとかそのようなことで、自分に自信の持てない奴がするものだからだ。

 

その流れで言えば最近テレビなどを見ていても、番組欄にやたら、こんなに凄い日本人! だとか、やっぱり日本が一番好き! とか言ったたぐいのタイトルが並んでいて辟易することがあるが、要するにその手のタイトルを見るたび僕は、ここまで日本人は自信がなくなったのかとがっくりしてしまうのだな。

 

なんだか健さん死すの報を前振りに、別の話をしてるみたいだけど、別段最初に書くことを決めてから書いてるわけじゃないので仕方ない。ま、せっかくなので健さんの話に戻れば、彼は決して世界的なスターと呼ばれるような人でないことは明らかだ。だってあんなに芝居の出来ない、てゆーかあの主演俳優の立ち位置であんなに不器用な役者さんて、僕は他に思い浮かべることが出来ないし、どの作品に出ようと、顔も髪型もまったく変えないのは、キムタクをどうこう言えるレベルなど遙かに凌駕している。

 

でも健さんのファンにとっては、それがよかったんだろうね。僕は俳優目的で映画を観に行く場合は、お気に入りの俳優が今度はどんな芝居を見せてくれるかということを楽しみに行くんだが、健さんファンの場合は「健さん」を見に行くんだから、極端な話、内容や展開はたぶんどうでもいいのだ。そこに「健さん」さえいてくれれば。そして健さんは、そんな観客のために、生涯をかけて「健さん」を演じきった。

 

ファンを引きつけたその「健さん」の魅力とは、僕流の解釈で陳腐な言葉にしてしまえば、昭和の男、それも戦争を越えてきた昭和の男という匂いにあったのではないかと思う。本人の実像はどうだったか知らないが、「健さん」のキャッチフレーズのような寡黙は、きっと戦争の真実を知っている男だからこその寡黙であったのだろうとね。だから映画の「健さん」の行動にはどこか、贖罪のイメージがついて回る。そして、彼がいつも最後に戦いの場に向かうのは、かつて犯した罪を償うためではないかと。

 

なあんてことを、せいぜい4~5本程度しか健さんの映画を見たことのない僕が言うのも何だけどさ()

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コメント

うじさん、アルム・オンジが好きではなかったですか? 健さんは日本のアルム・オンジ(私が勝手にチョット)のひとりだと思ってます。

高倉健も渥美清も、生きにくかったことでしょう。映画の中のイメージに縛られて。

それでも人生をかけて演じきるのが昭和なんですね。

そえださん、はじめまして。ホントに「生きにくかった」かなあ。

>Takaishiさん。
うん、いまでも大きくなったらアルムおんじになりたいと思ってま
すよ。でも僕としては、健さんにおんじのイメージは重ならないな
あ。もちろんTakaishiさんがそうお感じになることは否定しないけ
ど、いわゆる健さん伝説で聞こえてくる他人への思いやりや気遣
いといったものと、おんじのそれは、ちょっと違う気がして……(^^ゞ
どうでしょうね。

>そえやん
それはね、きっと日本人があの二人の映画の中で演じる「生きにく
さ」に共感していたせいかも。つまり健さんや渥美さん自身が生き
にくかったのではなく、彼らの演じる姿を通して日本人自身がある
種の生きにくさを感じていたのではないかと。あの二人にあまり共
感しなかった僕は、その意味ではあまり生きにくさを感じて生きて
こなかったのかもしれない……でももしかしたら、僕はこれから健
さんの映画がわかるようになってくるかも(T.T)

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