死んだ女より可哀相なのは生きている俺たちか
思いついたときに思いついたことを思いついたまま書いていく。
さて、北陸の温泉宿でひたすら目と耳を覆って過ごした週末、皆様におかれましてはいかがお過ごしだったろうか()
とりあえず僕はもう、当分この国のことは心配しないことにする。選挙は終わり、結果はまことに予想通りの結果になっただけの話なので、特に感想などもない。
恐らくはこれからこの国は、予想通りの壊れ方をしていくかもしれないが、その行く末を見届ける時間が僕に残ってるのかどうかはわからない。今年も同級生2人を含め、何人か知り合いが死んだ。何年か後で、今年死んだ奴は幸せだったなあなどとだけは思いたくないものだが。
特に昨日、旅から戻って久々に新聞を読み、そこである女性イラストレーターの訃報に接した時は、思わず声をあげてしまった。もともとSF系やPC系のマニアックな雑誌で活躍していた人で、あまり仕事の幅を広げなかったのか、そう頻繁に様々な雑誌で目にするような人ではなかったが、絵のうまさとギャグのセンスには抜群の才能を持っていた。
実は僕は彼女の絵と文章のセンスに惚れ込んで、会いたいと思ったことがある。もう30年くらい前、僕がまだ編集者だった頃だ。で、たまたまその当時、会社の新入社員だか新人バイトに彼女と同級生の男がいると知り、一度会わせてもらった。口数の少ない、ちょっと暗めのインテリ少女という感じで、もろデザイン学校か美大にいそうなタイプではあったが、僕は正直言えば一目で恋に落ちそうな予感を覚えてしまった。
あ、ちなみにこれは僕にとって別に特別なことではなく()、あの頃の僕はちょっと可愛い子と何かのきっかけや縁が出来ると、すぐ惚れた。と言ってそれが具体的な行動や実際の関係の進展に影響したことは、ほとんどない。あくまでこっちの勝手な妄想だけの話。
ただし当時の僕は、自分の好みのタイプの女性と仕事することは意識的に避けていた。やっぱり余計な感情が入ると仕事どころではなくなるだろうという、自分なりの危機回避のための決めごとが一応あったのだ。そんなわけでせっかく編集部まで来てくれた相手に対し、僕はほとんど名刺交換だけでたいした話もせず、その後も連絡を取ることはなかった。当然彼女は僕のことなんか忘れてるはずだが、僕はあのときの彼女の顔や雰囲気は、何となくまだ覚えている。
すれ違っただけの人生ではあったが、そんな彼女がわずか55年の生涯を終えたことには残念という思いしかない。来年から始まる『ガンダム オリジン』のアニメ化も、『スター・ウォーズ』のエピソード7から始まるシリーズも、もう見られないのだ。悔しいだろうな。
夭折した女性作家つながりであれだが、日曜にBSのNHKで放映していたナンシー関の人生をテーマにしたドラマを見た。ナンシー関もまた僕の大好きな作家で、彼女の単行本は全部とは言わないけどかなりそろえている。彼女は消しゴム版画家という肩書きで有名になった人だが、僕が彼女のファンになったのは何と言ってもあの文章力だ。
主にタレントや文化人を俎上にあげての人物評は時に抱腹絶倒、時に辛辣で、読む者の蒙を啓き、はっと膝を打たせる。たとえば人前に出ることを商売にするような人間には、営業用に見せる表情やトークとは別に、自分の心底に隠している別の自己が必ずあるものだが、ナンシーの視線はそれを見逃さない。見逃さないなんて、彼女の洞察が全肯定されてるかのような言い方をしたけど、少なくとも彼女の言葉によって、何かもやもやした気分を明確に言語化されたという体験を持つ人は少なくないだろう。
寸鉄人を刺すという言葉は、まさに彼女が体現していたことで、あの人はテレビの画面にタレントの顔がアップになるたび、その笑顔の底に潜むいかがわしさを、銛突きで魚を捕る漁師の達人よろしくグサッと突き刺しては水面にあげて明らかにするのだ。
彼女がいまも生きていれば、と思う彼女のファンは多いだろう。彼女が生きていた時代からでさえ大きく雰囲気の変わり始めているいまという時代を、彼女ならどんな言葉で、どこに突き刺して言っただろうか、などと時々考える。
かつて僕はナンシー関のコラム読みたさに週刊誌を買っていたことがある。もうこの数年は、週刊誌が中高年セックスと中韓あほばか記事のようなものしか載せなくなったので一切買わなくなったが、もしいまもナンシー関と同レベルのコラムを読めるなら、そのためだけに他の記事には鼻をつまんで買ってもいいと思うだろう。コラムとは、本来それほどの力のあるものなのだ。いま、そんなコラムはどの雑誌にも存在せず、ということは雑誌は単なる鼻つまみものでしかなくなった。
肝心のドラマのことにも少し触れておく。エピソードの合間に、生前の関係者、担当編集者などのインタビューを挟んでいくのはわざわざドキュメントドラマと銘打ってるんだから、そういう構成にしたのだろう。それに主演の女優さんは最初、生前のナンシーさんの映像を使ってるのかと思うくらいそっくりに見えて驚いた。ただせいぜい1時間の番組ではいろいろ難しかったかもしれないが、ナンシーさん自身の内面や葛藤に深く踏み込むようなシナリオではなく、案外あっさりさらっと流された感じがする。
特にラストの方の展開は、僕はまったく無用のことだったと思う。ドキュメントドラマと称するなら、きっちりドキュメントにこだわって、余計なことはするべきではなかった。もう完全にネタバレだが、たいしたネタバレでもないのでそのまま書けば、ナンシーさんが亡くなった後、病室に駆けつけた新山千春演じる彼女の妹の前に、幽霊となったナンシーが現れ、妹の新山がどうして死んだの? と訊ねるとナンシーは、テレビが面白くなくなったから、みたいなことを言う。
それは脚本家の勝手な主張で、ナンシーさんは多分そんなことは言わん。てゆーか、そんな主張をナンシーさんの口を借りてするな! テレビが面白くなくなったのは、この脚本一つ見てるだけで十分わかるわ!
ラストはラストで、このドラマの画面がそのままテレビの枠の中に入った画面となり、それを仕事場でナンシーさん自身が見ているという、まあNHKの朝ドラ最終回なんかではなんべんも見たシチュエーション。違うのは本人が死んでるという設定だけ。しかもそのまま終わるのかと思ったらなんとそのナンシーさん、自分を題材にしたドラマの評を書き出した。
もうね、これだけでこの脚本家がどれだけ自分が痛いことをやろうとしてるか、まったくわかってないことがわかる。ナンシーさんが書いたこともないコラムを劇中のナンシーさんに書かせるなんて、ベートーベンを題材にしたドラマで、べートーベンの新曲を発表するようなもんだぞ。
ただし、このドラマはそういう意味では論外だけれど、彼女の人生自体を題材にした映画自体は企画としてありなんじゃないか、なんてことをふと夢想した。映画化されれば僕は見に行く。ただし監督も脚本もハリウッドでやってくれ。主演は……ベット・ミドラーか!?
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コメント
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訃報を聞き、Mさんの本を探して、もう一度、読み返そうと思っていたところです。あの絵のセンスは好きでした。彼女の連載していた雑誌に二、三度ソフト評を書いたことがあります。
ナンシー関さんは、存じ上げませんが、昔、編集者に「○○さん(*ペンネーム)には、第二のナンシー関になって欲しい」と言われたことがあります。その当時は、消しゴム作家としか認識していなかったので「なんだよ、それ」って思ってましたが、そんなに鋭い人だったんですね。過去のコラムを買ってみます。
二つのエピソード共、駆け出しの20年くらい前の話です(^_^;)
投稿: そえだ | 2014年12月17日 (水) 04時56分
あ。貴兄もやはり好きでしたか、彼女。同じ雑誌で仕事して
たなら、忘年会とかに呼ばれて会う機会はなかったかな。ほ
んと可愛い感じの人でしたよね。
しかし第二のナンシー関ってそれ、編集者が貴兄にいったい
何を欲してそんなこと言ったのか見当がつかないけど、なか
なか豪快な言葉だな()
僕なら恐れ多くてとてもとてもと言うところだけど、その頃の
貴兄の毒のまき散らしっぷりが連想されて、朝から思い切り
ウケました()
投稿: ujikun | 2014年12月17日 (水) 13時28分