そろそろ一周忌
母がいなくなってから、もうすぐ1年が経つ。
ということは、1年前のいまごろは、母はまだこの世界にいたのだ。そんなことをこの1年、ときどき考えていた気がする。
夏には夏の、秋には秋の景色の中でふと足を止め、1年前のいまごろは、まだ母がいたという事実を、たいていはかすかに苦い胃液がこみ上げてくる感触とともに、思い返している。
葬式仏教、という言葉にはいささかの揶揄の響きもあるのだが、実際に近しい人間を亡くしていわゆる仏式の葬祭を経験してみると、これはこれでなかなかよく出来たシステムだなあと感心する部分もままある。
人が近親者の死による精神的衝撃から立ち直っていく過程を表わす心理学用語に「喪の仕事(grief work)」という言葉があって、ま、僕はこの言葉をサボってばかりいた大学時代の心理学の授業ではなく、後年たまたま映画のタイトルになったことから知ったのだけれど、葬式から始まる仏式の決めごと、たとえば四十九日とか一周忌、三回忌なんてものは、ちょうどこの「喪の仕事」を進めるために実に有効な働きをしていたのだと、父を亡くした後に実感した。
母の一周期を過ぎれば僕は恐らく、2年前のいまはまだ母が生きていた、などとは思わなくなっているだろう。その意味で一周忌は一つの区切りであり、その2年後、三回忌には日常生活の中ではほとんど母のことを思い出さなくなっているかもしれない。それは母を忘れたのではなく、母の存在と記憶を完全に自分の中に取り込んだということだ。
仏式の年忌イベントはそうやって、半ば暴力的に残された者の記憶に区切りをつけさせる。こういう区切りをつけてもらわないと、僕みたいなすぐに女々しくて辛がるような男はいつまでもその記憶に引きずられかねない。よし、悲しみ、終わり。誰かにそう号令をかけてもらわないと、なかなか次へ進み出せない人間もいる。
この1年、いま考えてみればなんだかんだ言って、僕は相当にへたっていた。でもこの先はもう、言い訳は出来ないよな。いまも自分にそう言い聞かせながら、ぼちぼち仕事にかかりだすことにする。
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