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安倍の効用?

ま、元が対太なので、きれいにまとめたようなこと言ってるけど(^^ゞ、この手のレトリックも最近はちょくちょく見かけるようになってきて、つまり安倍が総理として再登場してくれたおかげで、この国の人々はずいぶん久しぶりに、民主主義や憲法の意義について、考えざるを得なくなったのではないかと。すなわちこれも安倍が総理になってくれたおかげだと、なんだか一周回った安倍評価の言葉がね、ちらほらと目にする。ま、オレもだがσ(^◇^;)

 

確かに逆説的な理屈ながらそんな側面もあると思わせるのは、これは僕らの世代的責任も大きいと思うけど、僕らが思春期の頃から半世紀経ったこの現代に至るまで、この国の民主主義や憲法の存在価値を、この国の人間は誰も本気で考えようとはしてこなかった。なぜならこれらの理念が、あの戦争を終えた後に再び本気で試されるような、そんな時代は一度もなかったからだ。これは言い換えれば、この国が本当に平和であったことの証でもある。

 

その平和は、ある意味において、自民党の功績といえるかもしれない。僕は選挙権を得て以来ブレずに自民党が嫌いなので、自民の功績なぞあまり認めたくはないが、戦後のこの国の平和と繁栄が、自民党の政権運営時代にもたらされていることは事実だし、その理由には確かになにがしかの自民の手腕もあっただろうことは認めておかないとフェアではない。たとえこの国にとってそれ以上の大きな幸運に幾度も助けられたという側面があるにせよ、だ。

 

僕だって昔は自民党にも尊敬できそうな政治家がいたことを知ってるし、まともなものの考え方をする人も案外多かったと思っている。いや、だいたい昔は自民に限らず政治家に、あるいはもっと大きく言えば社会全体に、まだちゃんとした大人がいる時代だった。あの頃の「おとな」の意味とは、いま一言でまとめろと言われるならば、あの戦争を体験している、という一点ではなかったか、と思う。

 

だからそれこそ自民党の政治家だって、どれほど金権体質であろうと、権力欲丸出しであろうと、人品骨柄卑しさの極みを体中からぷんぷん漂わせながらもなお、「おとな」であったがために「戦争」という地雷のような言葉に近づく可能性のある問題に関しては、極めて慎重であった。あの岸信介でさえ、孫と違って憲法の条文内容自体を理解する能力はあったくらいだ。

 

いまはその「おとな」が日ごとにいなくなり、あるいは社会の中心から姿を消している。出来の悪い二世三世ばかりが残った自民党のていたらくを見れば、「おとな」のいない社会がどれほど恐いもの知らずで恐ろしいかということが実感できるが、あれは僕ら日本社会全体の姿でもある。でなきゃ、つまり日本社会の方がもう少しまともなら、安倍内閣に半数以上も支持が集まるわけないじゃん。あれを半数以上が認めていたり支持したりしてるっていうなら、この国ももうそろそろ終わるのだと、正直数ヶ月前までの僕は本気でそう思っていた。

 

冒頭の対太の言葉は、そんな日常に少し、希望の光が見えてきたような気がしたからつい調子に乗って書き込んでしまったのだが、本当はそんなに甘いものではないことは百も承知だ。安倍内閣の問題は戦争準備法案の話だけではないし、それこそいずれあの政党がナチスのような進化を遂げるのだとすれば、いまの対抗勢力のやり方ではとても太刀打ちできないだろう。もちろんそんなことは杞憂であってほしいのだけれど。

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