交差点
我が家の駐車場を出て、住宅街のやや細目の道路をものの4~50メートルもいけば、すぐに駅前からまっすぐ伸びた我が町のメインストリートにぶつかる。
そこはT字路の信号になっていて、右の角は小さな病院、左の角はこの春までわりと立派な家が建っていた。そこには年嵩の父親と息子が暮らしていたそうだが、5月にその息子が焼身自殺して、家はほぼ全焼し、いまは取り壊されてすっかり更地になっている。
後で誰かから聞いた話だが、死んだ息子はやはりこの交差点から目と鼻の先にあるこの町の高校で、僕と同級生だったらしい。名前を聞いてもさっぱり記憶がないから、もしかしたら高校では一度も接点のない人物だったかもしれない。彼がどうして死のうと決めたのか、そもそもなぜ焼身などという、死の手段としてはいかにも苦しそうで不合理な方法を選んだのか、その気持ちはわからないが、多少過去に縁があった同世代の男が、そんな最期を迎えたことには、正直、驚くよりも面食らったという感覚の方が近い。
僕は外出すれば、ときには1日に3度も4度もこの交差点を往復するわけで、当然その更地は何度も視界に入らざるを得ず、ここで死んだ人物が同級生だったと耳にして以来、僕はつい、目の前と言っていい距離に住んでいた彼のことが頭をよぎって仕方がない。
それはもちろん偽善めいた同情心の類いなどではなく、思えばただただ気が滅入るという、それだけのことなのだが、なにしろまだ半年足らず前の話。火事の後、しばらく放置されていた屋根の焼け落ちた家は見るたび生々しく感じたし、その家屋が跡形もなくきれいに更地にされたらされたで、その痕跡の何も残ってなさが、妙に哀しい。
つまり僕は、この事件のことはとうに気に留めなくなっているのに、外出すればたいていその交差点を通るため、結果、一瞬にせよ気分が滅入る思いを味わうことになる、という状態が続いていたのだ。僕の父は15年も前に実家の近くの路上で事故死したが、その場所を車で通り抜けるたび、いまでも感じる間の悪さに似ているかもしれない。
数日前、車で出かける際に、そのT字路の信号で停車した。この信号は感応式で、また青信号に変わるのにやたら時間がかかる。僕はギアをニュートラルに外してサイドブレーキを引いた。数年前ならここで煙草に火をつけてもいたろう。
ふと前を見ると大通りを挟んだT字路の正面、そこは電電公社のビルがかなりの敷地を取って壁のように立ちはだかっているんだけど、そのビルを背にした歩道に立つ母親と娘と思しき二人連れが、植え込みの間から僕に向かって一生懸命、手を振っている。はて……誰だっけ?
母親はそれほど若くも見えなかったが、丸顔に丸眼鏡、長めの髪をテールでまとめて、なんだか昔、よくCMに出ていた斉藤祐子を思い出した。彼女が手をしっかり握っている少女は多分4つか5つくらいで、その子も一緒になって大きく手を振っている。
誰だかわからないが、とりあえず手を振り返した。
このあたりはけっこう知り合いがうようよしていて、といってもこの近所の僕の知り合いはたいてい飲み屋で出会った人しかおらず、しかもそんなときの僕は十中八九、相手を覚えていない。だもんで、この近くを歩いていて誰かに声をかけられたり挨拶されると、相手にまったく心当たりがなくてもとにかく一通り挨拶を返すのが僕の処世術になっている。
すると彼女と娘は、突然ぱたっと手を振るのを止めた。止めたが、じっとそのままこちらを見つめている。何だろう、このばつの悪さは。もしかしてこちらの反応を待っているのだろうか。しかし彼女たちは道の向こうだから声をかけるならかなり大声を出さねばならず、そもそも相手がわからないのだから何と声をかければいいかさえわからない。ああ、しかもこんなときに限って、また信号がいつもよりさらに長い。
と思っていたら、また突然二人が大きく手を振り始めた。え、えっ!? 慌てて僕も車の中から手を振る。しかし何なんだ、彼女たちは。目の前にいる僕に向かって、あんな腕がちぎれんばかりに手を振らなくたって……と思ったところで、突然気づいた。ルームミラーじゃわかりにくいから、車内でリアウィンドウの方を振り返る。
多分僕の車からもう、5~60メートルは離れていただろう。僕のアパートの前も通り過ぎたはるか向こうに、何かスポーツバッグのようなものを提げた小学生らしい男の子が、こちらに向かって、大きく手を振っていた。
正面の母娘は僕に手を振っていたわけじゃない。恐らくはこの交差点で別れた息子に向かって、手を振り続けていたのだ。僕は顔の横に上げていた右手で、ゆっくりと運転席ドアの上部手すりを握り、おもむろにドアの方に顔を向け、ドアに異常はないかチェックしている満点ドライバーさんのような顔をした。そもそもあの二人には見えてなかったと思うけど。
二人はまた、ぱたっと手を振るのを止めたが、やはり同じ場所に手をつないだまま立っていて、またまた彼女たちが手を振り始めた頃、ようやく信号が青になったので僕はゆるゆると車を発進させた。
あのお母さんはきっと、あそこで息子の姿が完全に見えなくなるまで立っているのだろう。息子が振り返って手を振るたび、必ず応えてやるために。そんなとこまで見送らなくたって、息子が一人で学校か塾かスポーツクラブに向かったなら、さっさと買い物にでも何にでもいけばいいのだ。夕方のお母さんはいろいろ忙しいのだから。
大学進学以降、たまに里帰りした僕が東京に戻るときに母は必ず僕を見送りに米原まで着いてきたがり、駅構内の階段を上ってホームに向かう僕の姿が見えなくなるまで、改札の側で立っていた。僕はそんな母の視線を背中に感じながら、たいてい一度も振り返らずに帰っていった。だけど僕だって小学生の頃は、いまの少年のように何度も何度も後ろを振り返り、ちゃんと母がそこに立っていてくれるかどうか、確かめていたものだ。
運転しながら、妙に目頭が熱くなってしまった。
けれどこの日からあの交差点を通るとき、たまに、しあわせな気分も感じるようになれた。
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